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連載昭和の35大事件

まるで戦争「日本刀44本を押収」 殺人が起きても止まらない”野田醤油ストライキ”のすべて

争議団幹部が重役と刺し違えて一人一殺の案まで

2019/09/08

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, 経済, メディア, 働き方, 企業

note

人に硫酸を浴びせるなど暴力の末に

 組合員は「ひろしき」の悪条件の中に起居していたのだから、その行動はつねに暴力がつきまとっており、直接行動が随所に展開された。竹槍を作っているところを検束されたり、会社側についた商店の硝子窓は、一大デモを行って投石の上叩きこわした。労働者の前面に現われた、太田霊順、石塚常太郎氏の父、関根保次郎氏等には硫酸を浴びせて顔面に重傷させた。脱会した団員の家には何者とも知れぬ放火が行われたり、3月20日には東京駅頭に於て堀越副団長が当時としては破天荒な直訴を敢行した。解決の見通し困難な為に社会問題にしようとしてやったのだが、警察は極力本人の思い付単独犯行として取扱った。最後には幹部が重役と刺し違えて一人一殺の案まで立てられ、あわや実行にうつろうとした時解決の運びとなったのである。

争議解決。「温い握手」とあるが......(東京朝日新聞)

 戦略的に緒戦から敗れた組合は長期に亘ってストライキを決行したものの、敗勢を挽回することが出来ず、途に4月20日、涙をのんで会社の条件を受諾し、ここにストは終ったのである。その条件はまさに苛酷を極め、全員解雇である。然し300名だけ会社の選任で新採用されることとなった。涙金38万円、外に7万円、計45万円が支払われたが、借金の整理をすましては手には何程も残らなかった。当時日本は不景気のドン底にあり、職場を失った団員は悲惨の極みで、三々五々、つてを求めて四散した。或る者は発狂し、或る者は労働会館の梁にぶら下って自殺した。敗戦がいかに悲惨なものであるかはここに説く迄もないのである。

野田商誘銀行へ解雇手当の小切手を持参し現金を受け取る人々(「野田血戦記」より)

なぜ争議に敗れてしまったのか

 この争議に敗れた第一の理由は会社の闘争準備の整っていたのを組合が気がつかなかったか、又は故意に無視したかである。丸本運迭店は明らかに会社の誘いの手であり、争議が終ってからはいくばくもなく解散して今は存在しない。

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 第二は第十七工場の工員をどうして組合に加入させなかったかである。元より努力は払ったのであろうがこの儘でストを決行したのは根本的に誤りであった。先ず加入させることが先決であった。結成以来勝利の連続の為、相手を甘くみたとしか思われないのである。

 第三には幹部に行き過ぎがあり、結成当時の絶対的な信頼から相当異心を抱く者があらわれていたのである。消費組合の幹部を兼ねたことも良くなく、本部で酒を飲んだりしているのを組合員に見られ、それが手銭で飲んでいても、そうはみられず、幹部不信が生じた。戦後組合の多くが全国大会などの前夜、麻雀で徹夜しているのを見受けるが、こういう状態は必ず幹部不信になって現われてくることを心すべきであろう。

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 第四にはストの理由が直接的でなく、丸三運送店の問題であったことも、影響が無かったとは云えない。会社の狙った通りである。要するにこの争議の敗因は組合側が慎重さを欠き、会社の戦意を甘く見たところにあるのである。振り返ってみる時、一人の卓越した智将が欲しかった所似である。