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連載昭和の35大事件

まるで戦争「日本刀44本を押収」 殺人が起きても止まらない”野田醤油ストライキ”のすべて

争議団幹部が重役と刺し違えて一人一殺の案まで

2019/09/08

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, 経済, メディア, 働き方, 企業

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労働者の悲惨な生活に目をつけ組織化

 当時労働者は2つに分れていた。店員と現場に働く「倉人」である。店員は小僧から番頭まであり、何れも子飼いの郎党で労働問題には知識が暗い。工場の管理と販売に当っていたが古いしきたりをその儘続けていたに過ぎない。現場労働者の悲惨な生活に眼をつけて組織化を始めたのが、総同盟の小泉七造君であった。東京から入って機械の据付けなどをやり乍ら同志を獲得し、大正10年12月14日、愛趣園の境内で結成式を挙げた。この時は約300名が集った。慌てた会社が御用団体を作って対抗した。然し翌年2月迄には会員が加入し、気勢は頓に上った。

 これより組合は要求を次ぎ次ぎに出し、ストを以て闘い、必ず勝った。労働者の条件は忽ち驚く程改善され、「ひろしき」の雑居生活は廃止された。多くの者は家庭を持ち、独身者には2棟の奇宿舎が建てられた。当時重役も店員も着物を着て働いているのに、労組員は洋服を着用してその新しいところを見せた。講演会は工場の中で毎日行われ、眼に一丁字のない者も堂々たる演説をぶつ迄に向上した。大正10年春に結成して昭和2年迄の約7年間に組合はかくて長足の進歩を遂げたのである。

争議団本部のバルコニーから宣戦布告する小岩井相助氏(「野田血戦記」より)

如何にして組合に勝つか

 醬油屋者に何が出来るか、と高をくくっていた会社も組合員の進歩と組織の強化を見ては今や従来の対策では間に合わないとしてここに専門家を雇い入れた。東葛飾郡長であった並木秀太郎氏を工場課長に、協調会より太田霊順氏を顧問に、14年、15年には大学卒の優秀な者を雇い入れて専ら対策を練った。その目的は云うまでもなく如何にして組合に勝つか、である。

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 大争議の起きた昭和2年には5月に賃上げをやって不発に終った事件がある。組合があわやストライキに入ろうとした時、本部から差止められた。当時日本の経済界は不調のドン底にあり、ストをかけて闘うのは世論を敵に廻すものとして中止を命じた。この時の使者には、西尾末広、原虎一、斎藤健一の3氏が来ており、使者の顔ぶれから察して、野田支部が容易に命令を受けなかった事情がわかるのである。この時は組合の方から要求したのであるが、いよいよ会社から仕掛けて来た。

争議団、抗議の様子(「野田血戦記」より)

 7月になるや従来会社は荷物の全部を丸三運送店に扱わせていたのが、突如丸本運送店にその大部を扱わせるようになった。原因は丸三従業員が組合に加入しているので、丸本を新設し、組合に入らない者に荷扱いをさせようとしたのである。この方法は先に新設した第十七工場にとっており、十七工場の工員は組合に入らないことを厳重な条件にして雇い入れているのである。丸三の組合員は荷物が扱えず、収入が激減したので交捗したが解決つかず、遂に野田支部が荷主である会社と交渉したが、会社は荷物を誰に扱わせようとこちらの自由であると突っ撥ねた。