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連載NHK大河ドラマ「真田丸」の舞台 真田氏ゆかりの地をめぐる

第15回【遍照寺/松山恭幸氏宅】かつて信繁が暮らしていた屋敷跡と使用していた井戸

『真田三代』 (火坂雅志 著)

2016/10/29

genre : エンタメ, 読書

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【遍照寺】信繁が家族と暮らしていた屋敷があった場所

信繁が暮らしていた屋敷があったとされる遍照寺

 これまでの連載で幾度か触れてきたとおり、昌幸と信繁が高野山・蓮華定院から麓の九度山村に降りてきてからは別々に屋敷を構えて暮らしていた。信繁が住んでいた屋敷は、現在の遍照寺が建っている場所にあったと考えられている。

 

●防御性の高い天然の要害

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 信繁の住居跡は九度山の村人から「堂海東」と呼ばれていた(「先公実録」)。「海東」とは「垣内」の当て字で、村のお堂のような寺院を改修して屋敷としていたのだろう。立地は、昌幸の屋敷の東方の狭い道が入り組んだ高台で、南側全面は眼下に丹生川が流れる断崖絶壁。昌幸の屋敷があった場所よりも防御性の高い、天然の要害となっている。これは信繁の家族が多かったためだと思われる。多くの家臣は昌幸の屋敷周辺に居を構えていたが、最後まで付き従った家臣の高梨内記、青柳春庵(*)は信繁の屋敷の近くに暮らしていたのかもしれない。高梨内記の娘(ドラマ「真田丸」では長澤まさみさん演じる「きり」)は信繁の側室となって九度山で暮らしていたと考えられている。また、豊臣秀次の娘も側室となっていたとされるが、九度山で生活していたかどうかは定かではない。

(*)春庵の表記は「真田家文書」に依拠した

遍照寺の南側は断崖絶壁になっており、下には丹生川が流れている

 残念ながら遍照寺には信繁が暮らしていた痕跡は残っていないが、西方直下の民家の敷地内には信繁が使用していたとされる井戸や、信繁の住居の一角をなした石垣の一部が残されている(2ページ目「信繁が使用していたと伝わる井戸」参照)。

 

 遍照寺の歴史は古く、弘仁年間(810~824年)に九度山の東端に鎮座する槙尾明神の別当寺として創建されたという伝承が残っているが、当時から現在の場所に建っていたわけではない。遍照寺の住職によると、そもそもこの地には我覚寺という寺があって、遍照寺はさらにその上方の北の位置に建っていたという。明治5、6年頃、その場所に小学校を建てることになり、その際、移設されて我覚寺と合併し、遍照寺となったということだ。なお、信繁が九度山に居住していた頃は、我覚寺は信繁の屋敷の北側に位置し、後に移転したと思われる。

遍照寺

 遍照寺の本尊は大日如来、脇仏に十一面観音、薬師如来が祀られている。その内、最も年代が古いのが日光月光菩薩の脇仏で、平安後期の物とされる。信繁も日夜祈りを捧げていたのだろう。本尊の大日如来も元々は平安後期の物だが、江戸期に大幅に修復されている。

荘厳な雰囲気漂う遍照寺の本堂
本堂の梁には模様が彫られているが、中央の柱を境に左と右では彫られた時代が違うという。どちらかが後に継ぎ足したものだと思われる

『信濃史料』によると、信繁一家が住んでいた屋敷は慶長17年(1612)の末に火事で焼失した。その際、真田家の重臣・池田長門守が国許から金100両をかき集めて信繁に送った。そのお金で屋敷は再建でき、慶長18年(1613)の正月は新しい屋敷で迎えることができたという(『真田信繁』平山優著)。ちなみにこの時代の100両は江戸中期の2倍以上の価値がある(米価換算)といわれている。池田長門守らの忠臣ぶりを示すエピソードといえるだろう。

遍照寺境内

 信繁一家はここにあった屋敷で慶長19年(1614)に九度山を脱出するまで14年間生活した。第13回でも触れたが、蟄居の身ながら蓮華定院で要人と密会したりとかなり自由な暮らしぶりだったようだ。さらに年は不明だが、信繁の次男・大八は京都で子ども行事の石合戦に参戦した際、敵方から受けた石の当たりどころが悪く、死去したとされている(「先公実録」)が、実際のところは伊達政宗の重臣、片倉重長の下で匿われ、仙台真田氏の祖となった。このような伝承は、場合によっては信繁らが京都に行くことも可能だったことから生じたとも考えられる。また、九度山にいる間、信繁には正室または九度山在住の側室の間に5人の子ども(男2人、女3人)が生まれている。さらに、側室とした豊臣秀次の娘との間にも2人(男1人、女1人)が、出自不詳の側室との間にも4人(女2人、男2人)の子どもをもうけたとされる。

 

●九度山は物資と情報の集散地だった

 昌幸と信繁は九度山で情報や物資をたやすく手にしているがそれはなぜか。元々高野山は平安時代の中頃から、紀の川の流域に広大な荘園を所有していた。その荘園を管理する政所が九度山の西方にある慈尊院に設置されていた。政所が消滅した後は、必要な物資は一度全部九度山に集められ、高野山などに運ばれていた。つまり九度山は高野山が設けた、物資と情報の集散地だったのだ。ゆえに昌幸・信繁が情報と物資の授受には困らなかったというわけだ。昌幸・信繁が九度山で暮らすことを許された意味は大きい。

 

●昌幸の死後、出家

 信繁は昌幸の死後、出家して「好白」という僧名を得ている。ある年、姉婿の小山田茂誠に送った書状には、鮭を贈ってもらったことの礼と一緒に「近頃は病人のようになり、歯も抜け落ちて、髭も白くなった」と自身の老化、衰えを嘆く心境が綴られているが、署名は「真好白信繁」となっている。この時、おそらく信繁はまだ46~47歳。現代の感覚ではまだまだ老衰を嘆く年齢ではないが、当時の平均寿命は50歳なので、信繁もかなり気弱になっていたのだろう。この手紙を書いた1、2年後、信繁は九度山を脱出し、大坂城に入ったと推定される。

遍照寺
所在地:和歌山県伊都郡九度山町九度山1328
アクセス:南海高野線九度山駅から徒歩7分

取材協力/岩倉哲夫氏、遍照寺、九度山町産業振興課真田丸推進室

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