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瀧井 朝世
2017/04/01

塾は学校より色気がある。生々しい人間の姿が描けると思った──「作家と90分」 森絵都(前篇)

話題の作家に瀧井朝世さんがみっちりインタビュー

森絵都さん ©橋本篤/文藝春秋

森絵都(もり・えと) 

1968年東京都生まれ。早稲田大学卒業。90年『リズム』で講談社児童文学新人賞を受賞しデビュー。95年『宇宙のみなしご』で野間児童文芸新人賞と産経児童出版文化賞ニッポン放送賞を、98年『つきのふね』で野間児童文芸賞を、99年『カラフル』で産経児童出版文化賞を、2003年『DIVE!!』で小学館児童出版文化賞を受賞するなど、児童文学の世界で高く評価されたのち、06年『風に舞いあがるビニールシート』で第135回直木賞を受賞した。『永遠の出口』『ラン』『漁師の愛人』『クラスメイツ』『みかづき』など著書多数。

本屋大賞ノミネート! 昭和から平成の塾業界を舞台にした感動巨編『みかづき』

――昨年刊行された『みかづき』(2016年集英社刊)が本屋大賞にノミネートされるなど、話題になっていますね。昭和36年に学習塾を立ち上げた吾郎と千明という夫婦とその娘たち、さらには孫にわたるまでの家族の長い物語ですが、出発点は塾というテーマとは違うところにあったそうですね。

 もともとは家族の話が書きたかったんですね。それも、何代かにわたる家族の長い繋がりの話を書きたくて。長い話にするなら特別な背景なり舞台なりがあったほうが面白い小説になるのではと思い、それをずっと考えていたんです。なかなかその核になるものにたどり着けなくて時間がかかったんですけれども、ある時、塾はどうかなと思った時に、ふっと開けた感じがありました。これなら書けるかもと思ったんですよね。

 私自身は、そんなに教育について深く考えることなく生きてきたんです。興味を持ったのはこういう仕事を始めてからで、子ども向けの本を書いていたことも大きいかもしれません。日本の教育ってゆとり教育にしろ何にしろ、出来てはすぐ消えていって、一本の太いレールがないという印象がありますよね。時代時代の教育体制の中で子どもたちが踊らされながら生きている。なんでこんなことになったのかという背景を、自分で把握したいという気持ちはありました。でもそれを小説に結び付けて考えてはいなかったんです。塾という舞台を思いついた時に、この舞台を通じて自分が知りたかった教育の背景を辿ることができるのではないかと思いました。

――教育といっても学校ではなく、塾がテーマというところが面白いです。

 学校とは全然思わなかったですね。塾に携わる人間の目線から教育を描くほうが新鮮な感じがしたし、学校より色気があるというか、生々しい人間の姿が描けるのではないかというのがありました。

みかづき

森 絵都(著)

集英社
2016年9月5日 発売

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――そもそも長い話を書いてみたいと思ったのはどうしてでしょうか。

 これまでは人と人の横の繋がりを中心に書いてきましたが、血筋のような縦に繋がるものを書いたことがなかったんです。初めての連載でしたし、今までやったことのない話を書いてみたいというのが大きかったです。私は児童文学から始めていますが、児童文学って連載を掲載する媒体がないのですべての本が書き下ろしなんです。それで、その後も連載というものにはずっと腰が引けていて、早い話、締切りが怖かったので、長篇小説もすべて書き下ろしで書いてきました。でももう作家になって20年も経って、そろそろ挑戦しなくてはという気持ちで、初めて連載をやってみたんです。

――じゃあ、わりと書き溜めてから連載をスタートさせたんですか。

 いえ、ストックゼロ(笑)。「はやく書け」「まだ準備が整わない」というやりとりをずっとやっていて、これ以上は延ばせないというところで連載を始めたので、第1話を書いた段階でストックなんて1枚もなかったんです。それで、途中で資料探しが追いつかなくなって、3部構成の1部と2部の間にちょっと休んだりはしました。

――資料といえば、日本の教育や塾業界の変遷や昭和から現代までの出来事が分かる、ものすごく細かな年表を作成されていましたよね。実際に塾講師の方たちなどにも取材されたそうですし。

 そうなんですよね。土台づくりに時間をかけたので、だからなかなか書き始められなかったんです。塾や学校教育の歴史や、教育だけではない時代の空気感みたいなものも必要だったので、それで年表を作りました。いろんな本も読みましたし、取材は、「私塾界」という塾の専門誌の方たちがかなり協力してくれました。あとはNPOで子どもの学習支援をしている団体さんを訪ねたりしました。

――最初に出てきたのは吾郎さんの人物像でしょうか。学校の用務員をしていたところ子どもたちの勉強をみてやるのがうまいと評判になり、シングルマザーの千明に声をかけられ、学習塾を立ち上げることになる。この二人はのちに夫婦となります。

 まず吾郎で、ほぼ同時に千明が出てきた感じですね。今回、すべての登場人物がその時代に受けた教育の影響をなんらか受けている設定にしたかったんです。それで千明は国民学校に通わされて、軍事主義教育への怨念を溜め込んで育ったようなキャラクターになりました。吾郎はそのちょっと後の世代なのでそこまでの影響を受けていないけれども、みんなが貧しかった時代なので大学に行けずに教員免許が取れなかった、といった事情を抱えて生きている。その吾郎が教育に携わるきっかけが、理念ではなく、生身の子どもとの出会いであってほしかったんです。なので、最初のシーンには千明の娘の蕗子との出会いを据えました。後に出てくる彼らの孫の一郎も生身の子どもとの出会いを入口にしてほしくて、そのようにしました。

――物語の出発点の昭和36年というのは、ちょうど学習塾がぽつぽつと出てきた時期なんですね。最初は塾というものが「子どもを食い物にしている」「受験勉強を煽る」といった否定的な目で見られていたというのがとても意外でした。

 そこは私も調べ始めてから分かったことでした。なので、まさか吾郎と千明がそういう苦労を背負うことになるとは思わずにスタートしたんです(笑)。塾は、最初はエリートの子どもが通う英才教育の場であり、その後、勉強についていけない子どものための補う機関、補習塾として民衆の間に広まっていった。ちょうど高度経済成長が始まって、家計に余裕が出てきたので子どもを通わせる親御さんも増えて塾が増えていったという流れだと思います。

――そうした塾のあり方をめぐって、千明と吾郎は対立してしまう。その流れは織り込み済みだったんですか?

 合致するような二人ではないので、どこかで亀裂が入るんだろうなとは思っていました。でも意外と自分が思っていたより激しくなりましたよね(笑)。それは、ストーリーを書いていくなかで、やっぱり吾郎は彼の教育者としての理想に寄り添うように、千明は経営者としての考え方に寄り添うように書いていたからでしょうね。どっちも間違ってはいないんですよね。お互いに譲り合えないところまで信念が強まっていったということでしょうか。

――吾郎さんが勉強を教えるのが非常に上手であることが印象的でした。教える様子の描写などは何がヒントになったのですか。

 塾の先生が書いた本もたくさん読みましたが、いろんな先生のタイプがある中で、私が一番いいなと思ったのが、吾郎のような“待つ”先生でした。子どもの自主性が芽生えるまで待って、先回りはしない。とにかく子どもが自分で考えるようになるのを待っていてくれるという先生の教え方に共鳴しました。そのままは使わなかったんですけれど、なるべくそういうタイプの先生として、吾郎のキャラクターを育てていった感じですね。

――ほかにもさまざまな塾講師が登場しますが、学校の先生と違うように感じるのは、子どもたちを教育しようというより、純粋に教えることを趣味のように楽しんでいるところです。

 作中にもありますが、「はまる」と言うらしいです。塾の先生に取材をしていると、「いやあ、はまるんですよ」などと、当たり前の日常用語のように使っていて、その先生は本当に問題を作るのが好きなようでした。塾が広まり始めた時期というのは、徹夜でいくらでも教育談義を交わしたりするといった、熱いものがあったみたいですね。

――そういう先生たちに教わってみたかったです(笑)。ただ、物語は途中から吾郎さんの影が薄くなり、千明さんがどんどん強烈なキャラクターになっていきますね。

 そうですね。第1部は主人公を吾郎として書いて、その次は子どもたちの誰かに主人公を継がせようと思っていたんですけれど、それは千明に対して不公平になるかなと思うようになったんです。千明は千明なりの信念なり孤独なりがあるでしょうし、彼女なりに言いたいことがあるでしょうし。そこで千明を2部の主人公として書くことにしました。やっぱり千明には津田沼に塾が乱立して競争が激化した津田沼戦争(1984年)なり、1999年の塾と文部省の歴史的会合なりに立ち会わせたかったんですよね。彼女がこの時代にどう乗っていくのか、あるいは乗らないでいくのかというところを書きたかった。でもそこから娘たちを主人公にしようとしても、彼女たちも40を過ぎているくらいだったので、もうちょっと主人公を若返らせたいと思って孫の一郎に目をつけました。

――千明さんだけでなく、三人の娘たちもそれぞれ教員資格を取ったり、塾経営をしたりと教育に携わることになる。この時代の女性たちのいろいろな生き方を描いた物語にもなっていますね。

 そうですね。やっぱり全然違うタイプとして描いていきたかったんです。最初は千明の連れ子である蕗子に塾を継がせようと思いながら書いていましたが、意外とそうはなりませんでした(笑)。千明という強烈なキャラクターと、吾郎みたいなキャラクターの間で育ってきたらどうなっていくのかなと模索しながら書いていくうちにそうなりました。

 時代の影響もありますね。三女の菜々美の頃には「フリーター」という言葉も出てきて、わりと自由に我が道をいく人が増えてきた、というところもありますね。

――年表はかっちり作ってあるけれど、それぞれの人がどういう道を行くかはあまり決めずに書かれたというわけですか。

 一応要所要所は考えていたんですけれど、意外とその通りにならず(笑)。だいたい5年とか8年とか時代が空くんですが、時代が飛ぶごとに今度はどこに話がいくんだろうという感じは、自分でもありました。でも思い切って飛ぶことが、ダイナミックなストーリーに繋がっていくと思っていました。

――確かにダイナミックでした。そして孫の一郎君の時代になると、また状況が変わってきて、貧困家庭の子どもの教育事情などにも直面することになります。

 本当に、そんなに長い時間経ってないのにいろんな事情が変わってきたんですね。ゆとり教育というものが大きかったと思うんですけれども。一郎の時代は教育というものが細々と変化した時代です。

 子どもの貧困の問題自体は、新聞やテレビでちらちら聞くようになっていて。連載中はやはり「塾に通えない子ども」というフレーズがちょっとでも出てきただけですごく気になりました。私がこれだけ気になるんだから、きっと千明にしても吾郎にしてもそれは気になったはずなんですよね。ただ、彼らは職業的に塾の経営者としてそこには手を伸ばせない。じゃあ、この中の誰かがそこに手を伸ばすことにしたらどうかと思い始めて、一郎かな、と。子どもに勉強を教えているNPOの代表の方に取材をさせてもらったりして、どういう事情の子どもがそこに通っているかといったお話を伺いました。その方も2007年か08年くらいに、そういう学習支援団体がないか探したらなかったので自分で始めたとおっしゃっていました。始めた頃は子どもが全然集まってこなくて、集めるのに苦労したというお話も伺いました。そのあたりは作品に反映されていますね。

 最初はもうちょっとエピローグ的に短く終わらせるつもりだったんですが、書いても書いても終わらず、どんどん長くなりました。はじめは塾というものが稀で通っていると後ろ指を指される時代だったのが、今は塾に通っていることが当たり前で、塾に通えない子が稀になったというところまで押さえておきたかったんですよね。最後、一郎が気にかけていた子の問題が一段落して、彼が教育とは何かを自分なりに消化した時に落ち着くところに落ち着いたというか。ストンと着地したような感覚が自分の中にあって、やっとこの連載を終われるなと思いました。

――はじめての連載を終えて、いかがでしたか。

森 疲れたなって思いました(笑)。最後の3か月くらいはヘトヘトだったんですよね。最初は1回40枚くらいで書いていたのが、後半になるにつれ1回の枚数が50枚とか60枚とか、増えていったんです。なんか、自転車をガーッと漕いでいると、足を止めても車輪は回り続けるじゃないですか。あんな感じで、自分自身は機能していないんだけれども、回り続けている感がありました。

――連載ということで、次号に続くという時の引きみたいなものは考えましたか。

 それはすごく考えていました。毎回引きは考えていましたね。私はシナリオライターをしていたので、そこは考えるんですよね(笑)。

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