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連載昭和の35大事件

日米親善・北太平洋横断で消息を絶った飛行機はどこへ?――技師が明かした“驚きの証言”

「4.5時間の燃料しか積んでいなかった」

2020/01/12

source : 文藝春秋 増刊号

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア, 政治, 国際, 企業

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次なる「北太平洋横断飛行」に選ばれた三勇士

 さて第六次の「第三報知日米号」はどうしたか。

 これよりさき、昭和6年12月12日改装成って、本間中佐、馬場飛行士、井下通信士が搭乗して、午前10時40分、各務原飛行場を出発して、帝都訪問飛行を行い午後1時8分羽田空港に初めてその勇姿を見せて、航空関係者をはじめ、報知新聞寺田副社長、広田中村両局長らの歓迎をうけたのであった。

 極めて地味な、謙虚な訓練と準備が終った三勇士は北太平洋横断飛行の好機をねらっていた。220日を過ぎるころと予定された。

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 いよいよ昭和7年9月の10日出発式だった。当時のターミナルビルの北方に勇姿を横えた「報知日米号」は各社の歓送機に囲まれ井上陸軍大将、安東海軍中将はじめ航空関係名士、逓信、外務、陸海軍大臣代理、米、カナダ、ロシア代表などや、野間社長に激励されて、三勇士の面上には緊張が見えた。

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「一死任務に報ずる」

 本間機長は「細心なる準備の下に決行する横断飛行の事であるからそこに何らの不安はなく勇躍この大飛行に従事し得ることを喜ぶと同時に皆々様の御後援に感謝します。この大事業を完成したいと念じて止まない処であります」と決意の程を語った。

 本間中佐は佐渡河原田町出身、当時43歳、四谷区大番町の宅にはきみ子夫人と母堂とき子刀自がいて子はなかった。

 馬場英一朗飛行士は「過去1ヶ年間、黙々の中に着々準備して来た。この上は天候と天命の御加護により日本男子の意気を中外に発揚することこそ、吾々の勤めである。」と語ったが当時28歳、滋賀県坂田郡春照村出身の気鋭の名パイロット、本所区江東橋の馬場義郎氏が実兄であった。

 井下知義通信士は「一死任務に報ずる」と固い決意を語ったが32歳、島根県出身で海軍出身の名オペレーターであった。

 9月10日午前10時5分壮行の式を終えて第三報知日米号ユンカースW33F型機は羽田空港を離陸して朝日新聞のプス・モス機、毎日のブレダ機、学生連盟の青年日本号、報知新聞社のユンカースA50型などの歓送飛行をうけつつ羽田上空を一周の後一路、スタート・ラインの淋代に向った。

 霞ヶ浦を午後11時35分、水戸を同58分、小名浜午後0時28分仙台を同一時25分に通過し快調の飛行をつづけること4時間余にして淋代に午後3時31分着陸した。が歓送の報知機(浅井飛行士)は、発動機の故障で東京品川海岸に不時着して壮途に暗い影をさした。

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