軍部の政治権力を確立せしめたと言われる「ダマレ」事件の真相をその当事者が初めて発表す!!
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「総動員法問答事件」(解説を読む)
戦争遂行のため国家の総力を結集させる「国家総動員法」
支那事変が長期戦の様相を呈するに及んで、戦時体勢を確立するため、総動員法制定の必要が起って来た。
総動員法は一戦時立法に過ぎなかったけれども、資本主義の動揺、政党政治の腐敗堕落に起因して、三月事件乃至二・二六事件等革命的諸事件の頻発と、未曽有の政局混乱の跡を承け、此の法律が期せずして、革新と現状維持との激突の契機を孕んで、時代的脚光を浴びて登場した。
総動員法は、経済的には自由主義を基調とする資本主義機構を、国家的統制機構に変革し、政治的には政府の命令権を増大して、議会の権能を弱める性格を持つものであった。
それは戦争遂行のため国家の総力を結集せんとするやむを得ない措置ではあったが、当時我国内に吹き荒れた革新の旋風に、現状維持の最後の牙城を守ろうとする反撥を呼んだのも、時代の然らしめる所であった。
重要法案の審議に姿を見せなかった近衛首相
総動員法が提案せらるべき、昭和13年1月再開される議会を繞って、政界には倒閣運動、新党運動、電力国家管理反対運動の底流が渦を巻いた。
此等3つの運動は夫々異なるものではあったが、政府と議会との衝突を希望する点に於ては相通ずるものがあり、そして衝突の具として総動員法が覘われて居る事が吾々の眼に映じた。総動員法を政争の犠牲にしてはならぬと深く戒慎する所があった。
総動員法案の紛糾が予想されたので、近衛首相に、成るべく此の法案の審議に出席せぬよう進言した人があったと云う事である。
近衛首相を傷つけまいとする忠義立てか、或は逆に紛糾を激化しようと考えたのかも知れぬ。いずれにせよ不届きな進言であった。
だから総動員法案が本会議に上程された際近衛首相は出席して居なかった。質問の第一陣に立ったのは牧野良三議員である。
総動員法案が、当然法律で規定すべき事項を勅令等に委任してある点を指摘して、本法案は議会の立法権を、政府に白紙委任せんとするものとして、違憲論を以て責め立てた。
其の論鉾は鋭く、攻撃態度亦堂々たるものがあった。併し其の論旨は当然予期せられた事であったから、近衛首相が之を受けて立ち、堂々所信を表明すれば爾後の審議も順調であったかも知れぬのに、肝腎の首相が居らず、広田外相が代って立ち、事は憲法上の重大問題だから、法制局長官をして答弁せしめる旨を答えたから、議場はおさまる筈が無い。忽ち混乱に陥り、休会が宣せられた。
かかる重要法案を提出して置いて、首相が本会議の質問の矢面に立たぬ手は無い。議会が怒るのは尤も至極だ。