酔虎事件として世界に類のない珍奇事件とそれをめぐるマ司令部と政党の暗躍を白日下に曝す。筆者は当時の社会党渉外部長。
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「泉山虎大臣の出現」(解説を読む)
昭和23年10月始め、民主、社会連立の芦田内閣が昭電事件で倒れ、自由党の第二次吉田内閣がその月半ばに成立した。この吉田内閣は少数党内閣だから一日も早く解散して総選挙を行おうと焦っていたが、総司令部の覚えが目出度くなかったため、解散をしようにも解散が出来ず、とうとう野党からズルズルに引きずられて、12月の通常国会に引張り込まれ、漸くのこと司令部のオー・ケーがとれて12月14日が国会の解散日と予定されるに至った。
そこで野党の民主、社会、国協の三党では13日の朝代表者会議を開いて内閣不信任決議案文の起草を行い、筆者も社会党の代表で出席していたが、不信任案の本文と理由書の原案を筆者が起草し、三派会議に附して本極りとし、いよいよ翌日の解散に備えたのであった。野党の態勢は全く整い、翌日の解散に備えて個々の代議士は解散準備で心ここに非ざる情況であった。
その13日の夜、泉山事件が勃発したのである。そうしてそのため解散が10日も延びて23日漸く解散に漕ぎつけ所謂正月選挙になったという次第である。
陰謀説も絶えない「泉山事件」とは
泉山事件にはその当時も今でも色々な噂がまつわり、あれは計画的に仕組まれた陰謀で酒の強い山下春江をして意識的に酒好きの大蔵大臣泉山三六に酒を強いて泥酔させ、その後を色仕掛けで泉山の弱点を暴露させ、これを政治問題に持ち込んだものだ、泉山がその晩の10時半頃院内医務室で注射をして貰った時、医者が泉山の眼を見たら瞳孔が開いていたが、これはてっきり一服盛られた証拠だ、これらの陰謀的計画は解散を阻止し、出来た許りの吉田内閣を倒壊に導くためのものだった、こんな噂が飛び、いや噂だけでなくあの事件の直後、法務総裁の殖田俊吉が実際に司直をして調べさせたことがあった。
こんな噂が災いし民主党の山下春江はその時の選挙で気の毒に落選の憂目をみ、これと逆にあの時気の毒な憂目にあった泉山は2年後の25年の全国参議院議員選挙で同情が集って40万票の大量得票をかちとったのである。
あの事件の直後、総司令部でも「ダーティー・トリック」と言下に山下事件をあたかも民主党と社会党が仕組んだ芝居だと直感した程だから、こんな噂がたったのも無理からぬことかも知れない。だがこのような噂や想像はことごとくうがち過ぎた話で事件の真相はこうである。