「なんとかして吉田内閣をいためつけたい」
泉山事件を頂点とするあの時の政局を辿って総司令部内の対立ははげしかった。第二次吉田内閣が出来た時、吉田はマッカーサーに会って早期解散の決意を述べてその賛成を得たのは事実である。だから吉田は遅くとも11月の末にはその時開いていた第三臨時国会を解散出来るものと思っていた。
あの時の国会には芦田内閣からの懸案である国家公務員法改正案(争議禁止案)が、マ司令部の至上命令で出され、その蕃議が終ったら解散と誰でも考えていた。
ところが11月12日突如として社会党委員長の片山哲と民主党総務会長の苫米地義三が民政局長のホイットニーから招ばれ、国家公務員法改正は是非国会を通すように、又国会の解散は憲法第7条により政府が勝手にやってはいけない、何處までも第69条により野党側提出の不信任案通過によって始めて可能である旨を指示した。
元来あの時の民政局は社会党、民主党びいきで、吉田自由党が大嫌いである。なんとかして吉田内閣をいためつけたいというのがその本心であった。
解散の出来ない吉田内閣は窮地に
これに便乗したのが野党である。この民政局の指示は、野党にとって絶好の攻道具である。吉田内閣を解散不可能の鎖でつないで思うざまひっぱたけるからである。
筆者がこの日司令部から国会に帰って来て、官房長官の佐藤栄作と廊下で会ったので「オイ政府は大変なことになるぞ」と解散不可能の司令部の意向を話してやると、佐藤は「俺の方はマックと連絡して承認を得ているから大丈夫だ」という。「それは違うぞ」といっても信用しない。
ところが翌日になってマックの方に連絡してみると憲法の解釈は民政局にまかせてあるからと打って変わった態度で一向にとり合わぬというので佐藤がすっかり腐ってしまっていた。「どうするか」と佐藤がいうから、「こっちは無解散だから政府を毎日攻めつけるんだ」といったら佐藤が「なんとかならんか」といって全く困っていた。内閣が出来たばかりで、解散の出来ないあの時の吉田内閣は誠にみじめであった。
吉田は最初からマック幕僚の中で民政局が大嫌いで、経済科学局長のマーカットや、ウィロビー、ベーカー等の一流と連絡していた関係もあり、それだから民政局は吉田を目の敵にしていた。