GHQの勢力争いがそのまま日本の政争に発展していた
吉田内閣は必死となってこれらの線を辿ってマックに解散が出来るように働きかけ始めた。これというのも総司令部内の勢力争い、分派争いが日本の政争にそのまま反映していた訳で、あの時の解散問題もそのとばっちりを受けたものであった。
それから当時米国に帰っていた民政局国務員課長のフーバーが日本に帰って来て、国務員法改正の裏付けとして給与ベースの引上げを指示し、追加予算を出せと迫って来たので吉田内閣は解散どころでなくなり全く泣きっ面に蜂であった。ところがウィロビー一派の吉田支持の動きも活潑となりマックも板挟みとなって余程困り抜いた揚句一つの仲裁案を案出したのだ。仲裁案とは自分の部下の勢力争いの仲裁案であり、同時に日本の与野党政争の仲裁案ともなった訳だ。
11月27日にホイットニー、ケーデス、ウイリアムスの民政局3人男が吉田を訪ね「給与のベースアップ予算を30日までに国会に提出すること。その代りこの審議は2週間とし、2週間目に野党は不信任案を出し、国会はその通過をまって解散してよろしい」との仲裁案を示した。
一方片山、苫米地の野党々首も引続いてホイットニーに呼ばれ同じお達しを受けた。その2、3日前だった。
筆者が民政局に出向いてウイリアムス国会課長と話していると彼が、「細川、君はプリ・エレクション・キャンペイン(事前運動)はもう済んだのか」というので「忙しくてなかなかやれない」と答えると彼はニヤニヤ笑っている。解散はさせないからウント政府をひっぱたけといっていた民政局とはまるで違った言葉だ、ハハア、これは情勢が変って来たナ、民政局もウイロビー派の力に押されて第7条の解散に屈しそうだナと直感したが、まさかあのような手の込んだ仲裁案が出て来るとは想像出来なかった。
かくして前にいったように12月23日までズルズルに延びはしたがマックの仲裁案でともかくも司令部の分派争いも同時に日本の与野党の対立も終止符を打った訳である。
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