解説:新聞業界に巻き起こった「航空競争」の果てに

 新聞社が主催する事業はいまも数えきれない。展覧会、講演会、スポーツイベント、探検・冒険……。紙面との連動で新聞の存在感を示し、部数を伸ばすのが主な狙いだが、その時期、社会的に意義が認められるもの、という視点を切り離しては成立しない。しかし現実には、業界内の競争などもあって、企画や意図が先走りして失敗に終わったケースもある。今回のテーマはその典型だろう。

 北太平洋横断飛行計画は、野間清治という人物抜きには考えられない。群馬県生まれで、旧制中学の教諭などを務めた後、雑誌発行を手掛け、1911年、講談社を創立。「少年倶楽部」「キング」などを相次いで出版し、「講談社文化」という言葉が生まれるほどの業界の巨頭に。1930(昭和5)年6月、経営難に陥っていた報知新聞の社長に就任した。正式な伝記と思われる中村孝也「野間清治伝」、辻平一「人間野間清治」のいずれも「好んで進出したのではなく、報知側から強く望まれて」と書いている。

報知新聞社長時代の野間清治氏(「野間清治伝」より)

キャンペーンの一つだった北太平洋横断飛行企画

 それでも、「世紀を超えて―報知新聞百二十年史」は、「野間は“清く明るく正しい新聞”をモットーに新しい紙面づくりに乗り出した」と記述。具体的にこう書いている。「“大付録作戦”を始めた。毎週日曜日、B5版32ページの『日曜報知』を月ぎめ読者に無料配布するのである。付録は菊池寛、白井喬二、佐々木邦ら流行作家の小説や木村8段の『将棋上達の道』などの読み物を掲載し、表紙は色刷りの本格的なもの。翌1931年1月には、3カ月以上の月ぎめ読者に総額10万円余の福引、3月11日からは『婦人子供報知』を月2回配布、合わせて月6冊の付録サービスをした」。北太平洋横断飛行企画もそうした、新聞業界に“殴り込んだ”「雑誌王」野間の改革キャンペーンの一つだった。

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欧亜連絡飛行成功を大々的に伝える報知新聞記事

「昭和5年8月20日、ベルリンを出発した吉原清治飛行士はユンカースA50型80馬力の単座軽飛行機『報知号』を駆って、東京まで1万1000キロの連絡飛行に飛び立った。8月30日、無事、代々木練兵場に到着。20万人の熱狂的な歓迎を受けた」(「世紀を超えて」)。「日米親善と欧亜連絡の二大使命」を背負った飛行企画を、8月31日付の報知夕刊は「欧亜制空の壮図成り 『報知』機けふ帝都入り 見よこの歴史的光景」と大々的に報じている。当時の濱口雄幸首相(この年11月に狙撃されて重傷を負い、その後死亡)の「我が国の誇り」という談話も。