新聞社は競って飛行計画を支援
「世紀を超えて」は以後のことをこう書いている。
「吉原は収容された船上で直ちに再挙を願い出た。本社もまた前回と同型機を求め、『第二報知日米号』と命名して、新知島を起点に横断飛行の再挙を図った。ところが7月5日、根室湾で最後のテスト中に高波に遭い、機体の一部を損壊、計画は再び挫折した。しかし、本社は、三たび横断飛行に挑むことを8月10日に公表した」。
軽飛行機でなく、3人乗りのユンカースW33型機を使用。本間清・予備海軍中佐を機長に、馬場英一朗・一等飛行士、井下知義・無線通信士を乗員として翌年春以降、再挑戦するとした。
新聞社は競って飛行計画の支援、後援に力を入れていた。1927年に初の大西洋単独無着陸飛行を成功させて世界的に有名になったアメリカのリンドバーグ大佐は、報知の計画と前後した1931年8月、水上飛行機でワシントンからアラスカ、アリューシャン列島、千島諸島経由で茨城県・霞ケ浦に到着。総行程1万2300キロを28日間、計80時間33分で翔破した。これを東京朝日が支援。連日、紙面で大々的に追跡報道した。
報知は面子もあって、強引に計画を推し進めた
さらに、同年10月には、東京朝日の「5万円懸賞飛行」に応募したアメリカ人パングボーン、ハーンドンの2飛行士が、逆に東京からアメリカ・ワシントン州まで飛行。10月6日付朝日朝刊は2人の写真に「大空の新英雄」の説明を付けている。「かくて報知の北太平洋横断飛行にかけた新記録達成の夢は、アメリカ人にさらわれてしまったわけだ」(「人間野間清治」)。野間社長や吉原飛行士がこれらに刺激された可能性は極めて高い。新聞航空史も「当時の大新聞であった報知は面子もあって、強引に計画を推し進め」と書いている。焦りもあったのではないか。
翌1932(昭和7)年は報知の創刊60周年で、9月には「紙齢」が2万号に達する。そこで1931年12月、あらためて3つの計画を発表した。
(1)吉原飛行士が水陸両用飛行艇「報知日本号」でサンフランシスコを出発。途中8回着水しながら北太平洋を横断
(2)本間中佐らが「第三報知日米号」で青森県・淋代からアラスカ経由で途中1、2回着陸して訪米
(3)名越愛徳・予備陸軍大尉ら2人が「報知日の丸号」でシアトル―東京間9000キロを無着陸で横断飛行
三段構えの計画だった。