当時の警視庁特高課長が自ら描く三・一五、日本共産党大検挙の種々相
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「赤色戦線大検挙」(解説を読む)
馬場先門を宮城に向って入った直ぐ右側のお堀端に長い廊下でつながれた幾つかのバラックが建ち並でいる。これが大正12年9月1日の関東大震災でやられた直後建てられた警視庁の仮庁舎、特高課労働係の一室、真夏のうだる様な8月中ばの昼さがり、係官の多くは夫々の任務を帯びて視察に出かけ、広い事務室はガランとしている。
「東北地方の子供の出来る温泉で重要会議があった」
次席警部の毛利基君は独り机に向ってかねて日本共産党の再建運動が秘密裡に進められているとの情報を耳にしていたので、その対策に日夜頭を悩まし秘策を練っていた。折しも事務室の片隅にある公衆電話のベルがけたたましく鳴り始めた。やおら立ち上って受話器を耳にすると「毛利警部さんですか。最近東北地方の子供の出来る温泉で重要会議があったと云う噂があるが知っているか」と告げて電話は切れてしまった。
警部は福島県の出身である。山形県下の五色温泉は古くから子供の出来る温泉と云い伝えられている。五色温泉は福島県と山形県との境にある山の温泉で、スキー場としても既に有名であった。かかる不便な処でわざわざ重要会議をやったとすればそれは容易なものではない。警部の六感はもしやとしばし顔面の緊張を禁じ得なかった。直にとの情報は係長の浦川秀吉警部から私にも伝えられ、三人は暫し鳩首協議をした結果、この情報の真否はともかくとして一応内偵して見る必要があるとして早速毛利警部を出張させることにした。出張命令書には日本労働組合評議会の活動状呪調査の為、大阪府に出張を命ずと記された。
奥羽本線板谷駅から約一里の道を五色温泉に唯一軒の温泉宿宗川旅館に着いた毛利警部は、女中に命じて旅舘の女主人を招じた。女主人から聞き出した話は大体次の様なことであった。
「これから暫らく相談があるので誰も来ないでくれ」
たしか昨年(大正15年)12月の初旬と思いますが、突然二人のお客が来られて、自分達は東京からはるばるやって来たのだが、社では毎年忘年会をやることになっている。社長が今年は一つうんと田舎の静かな処で大いに羽目をはずして騒ごうじゃないか、何処かいい所があったら探して呉れと頼まれ、自分は山形県の出身なので五色温泉はどうでしょうと申上げた処、そいつは面白い、君等先発して前以て交渉しておいてくれとの事で一足先に来たのだ。明朝15,6人の者が来るから成るべく静かな部屋をとってくれとのことでした。丁度その頃は寒くなって雪も降り初めた頃なので浴客は皆下山せられ、又スキーには時期が少々早いので、1年中の一番閑散な時でもあったので、良いお客様と喜んでお引受けして離れの二間をお約束致しました。
翌朝早々から15人のお客さんが三々五々やって来られ、午前中は入浴やら昼寝で疲れを休められ、午後になってこれから暫らく相談があるので誰も来ないでくれ、用事があれば呼ぶから、とおっしゃって夕方までかなり長い間お話が続いた様でした。然もその間どなたかが見張りをされていた様な気がしました。やがて話がすんでいよいよ慰安会となり、今日は無礼講だからと云って随分おそくまで呑めや歌えの大騒ぎでした。
5日には午前中に皆様お帰りになりましたが、お勘定の時多分の心付を頂きましたので、旅館名入りの手拭をお返しに差しあげたのにどうしたことかお持ちになりませんでした。