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渡辺政之輔の一大不覚

 昭和13年の第五回のコミンテルン大会以来四年目に開催された第六回大会に日本代表として出席した佐野学、市川正一等との連絡がさっぱりつかない計りか、国内に於ては次から次へと重要人物が逮捕せられて行くのに焦慮した渡辺政之輔と鍋山貞親とは共に上海に渡って佐野、市川と連絡をつけようと思い立ち、9月10日頃宮島に一泊して門司から一旦青島に赴き更に汽船で上海に渡った。POボックス1260宛の手紙を投函して連絡をとり翌日或るカフェーで支那人と会った。その支那人の案内で仏租界の米国人の宅に赴き約10日間を過したが、モスコーとの連絡はつかず、佐野、市川の消息は依然不明であった。

渡辺政之輔 ©文藝春秋        鍋山貞親 ©文藝春秋

 そこで渡辺は鍋山を残して一足先に帰国することとなり、台湾経由の湖北丸に一等船客東京市浅草区神吉町時計商米村春太郎と偽名して乗船、10月6日朝基隆港に入港した。時しも今上陛下の戴冠の大典が間近に迫ったこととて水上署員の検索は極めて厳重であった。検問の与瀬山刑事は船客名簿と対照しつつ一等船客の取調に当った。銘仙の袷に鉄無地の羽織を着て博多帯をし、金縁眼鏡をかけた一見商人風の男が氏名住所を尋ねらるるままに台北市滝口町堀田吉三と印刷した名刺を提示した。渡辺ともあろう者の一大不覚であった。

 船客名簿と全然異なっているので不審を抱いた与瀬山刑事はその所持せる黒革製中型トランクを調べた。中にはグレーの合着背広一着、レインコート、山梨県下部温泉大森旅館の名入りの妻楊枝入れ、門司市群芳閣の扇子、米村春太郎の名刺、時計のカタローグの外、日本紙幣で150円、米国紙幣800ドル、支那紙幣数葉を発見した。与瀬山刑事は尚一応の取調べを要するものとして水上署に同行を求め、水上署のランチ「ときわ」に乗って哨船頭の岸壁に着いた。与瀬山刑事に続いて米村も上陸した。

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渡辺の最期は自ら拳銃をコメカミに

 最初の訊問以来神妙にしていた彼はこの時早く懐中に隠し持ったブローニング6連発の拳銃を以て前に立った与瀬山刑事に必死の形相も物凄くズドンズドンと続けさまに2発を放ち即死せしめて飛鳥の如く逃げ出した。「ときわ」より遅れて上陸した平間警部補等は直に米村を追跡した。道不案内の米村は路地に逃げ込んだが、それが袋路地と知るや、遂に進退谷まって観念した彼は自ら拳銃をコメカミに擬し右から左に前額部を見事うち抜いて自殺してしまった。

©iStock.com

 水上署では重大犯人と認め警視庁に打電、米村の取調を求むると共に詳にその人相指紋等を徴し追送した。身長五尺三寸、頰骨高く額広く口は稍大きく中肉、頭髪は七三に分けていた。左手上膊部内側に幅四分長さ一寸五分の短冊形に「こうこ」と刺青していた。彼米村こそは日本共産党の大立者中央執行委員渡辺政之輔であったことを指紋の対照に依って確認した。

 渡辺は千葉県市川市の出身、高等小学校を卒業して上京、職工となって各社を転々したが、当時より労働運動に注意し評議会の幹部として活躍した、佐野学、徳田球一、市川正一、鍋山貞親、三田村四郎氏と親交があり、第一次日本共産党事件に連座8ヵ月の徴役に服した。出獄後第二次日本共産党の結成に就ては中心の第一人者であり、同志の間では渡政【ワタマサ】の愛称を以て呼ばれて居たのである。

            (民主党代議士)