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連載昭和の35大事件

「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

「トンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」

2019/12/22

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

――満洲侵略戦争を前にした弾圧・極左妄動・スパイ共に対する血みどろの闘争。名も知れず倒れし人々の偉業に捧げる一篇の悲話――

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「『武装メーデー』事件」(解説を読む)

労働者農民をとわず、全国各地で血みどろの闘争

 昭和4年10月、アメリカにはじまった恐慌のあおりをくって、日本も同年秋からひどい恐慌にみまわれた。世界的には、大国間の矛盾と対立が激化し、戦争のいぶきがきこえ、国内では、金解禁・緊縮政策・物価引下げなどが強行されはじめていた正にその時である。大資本家は、恐慌からのがれるために、その全負担を勤労大衆と中・小企業におしつけようとした。それは戦争への道でもあった。このため、首切り・賃下げ・労働強化・操短・工場閉鎖などの合理化政策が、あらゆる産業で強行された。労働者は、生活を守るために激しく闘わざるをえず、日本の歴史上はじめてといえるほどの大争議が各地におこった。

 その頃の大争議の典型ともいうべき東京市電、ゼネラル・モータース、東洋モス、芝浦製作所、鐘紡、星製薬などは、生活の破綻に自然発生的に行動にたった労働者が、気狂いじみた暴力団を手先にした資本家と野蛮きわまりなき警察の弾圧に抗して、余儀なく、いろいろな形での実力的闘争に移ったものだ。飢餓にひんした数百万の失業者をはじめ、労働者農民をとわず、全国各地で血みどろの闘争がくりひろげられていた。

 このような情勢を前にして、田中清玄、佐野博らが中心になっていた共産党は、どんな方針をもっていたか? 当時、党の責任者だった田中は、戦後、「川崎のメーデー暴動とか、議会焼打ちとか、和歌の浦事件」など、武力的行動のあった事実をみとめている。だが彼は当時の武装行動を、全体として、党の自衛のためのものだと強調する。すなわち「私は佐野、鍋山、渡辺政之輔さんの与えた指令通りにやったわけです。『党は自己防衛しろ』『党は自己自身を武装防衛しろ』その通りやりました」(「座談」誌25年正月号)と。

1930年のメーデーを報じた東京朝日新聞。川崎の事件は載っていない

「自己防衛」の域をはるかにこえた極左冒険主義

 被は、従来の党の方針が、武装蜂起や武装自衛団をみとめていた事実(「赤旗」3、4、15、16、22、27号等々)や、彼以前の党指導部の一部が自衛のために武器を用意した事例(「中央公論」昨年7月号、徳田健次「検察陣よ悪しからず」参照)、ある場合、武器が使用された事実(例えば3年10月7日、渡政が台湾基隆で自己防衛のためピストルをもって特高に抵抗し、12月8日、三田村が浅草で特高を射って逃走したような)を一面的に強調したいのだろう。

三田村四郎 ©共同通信社

 だが実際に彼らのとった方針と指導は、武装問題に対する党と共産主義者の原則的態度をはずれ、また党中央部員の「自己防衛」の域をはるかにこえ、極左冒険主義の一典型となっていたのである。

 これよりさきの4年初頭、党中央はすでに党の孤立化に気がつき、その是正のための努力をはじめていた(「赤旗」25号「党孤立化の問題について」その他)。四・一六の大検挙で、市川正一その他の経験ある指導者をうばわれ、田中と佐野、前納善四郎が中心ではあったが、佐藤秀一(旧評議会関東出版出身。四・一六後、前記三名と党再建活動をし、諸方針上意見を異にしたのを理由に排除される。後日、南巌や私などと共に全協刷新同盟をつくる。5年検挙。出獄後、私と共に党再建運動中検挙され獄死す)ついで山本忠平(アナ出身、三・一五前後より党に接近。四・一六後、江東地区委員、東京地方委員を経、11月中央委員会に出席、同21日渋谷で検挙。6年8月市ヶ谷刑務所で「怪死」す)らを指導部にもっていた頃の「赤旗」は比較的正しい方針をうちだしていた(28293031号等)。