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連載昭和の35大事件

「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

「トンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」

2019/12/22

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

二・二四事件の全国一斉検挙で、300名が検挙

 しかし、一方では山本忠平を失い、他方では誓察の猛烈な追究に、関東各地を転々した党中央が、関西に移動した後、ことに5年1月中旬、和歌山県二里ヶ浜で、全員ピストル武装で中央部の会議を開いた時以後、この極左的な傾向はまたつよまった。

 2月12日、すでに警察側が網をはっていた大阪各所に、武装ビラまき隊があらわれて続々と検挙された。23日夜、新和歌の浦で、小宮山英子、加藤定吉らは、逮捕にきた警官にピストルで抵抗して2名を負傷させ、同日東京渋谷の代宮山、28日には豊島区の長崎町でも同様の事件がおこった。4月1日、赤坂ボントンでの検挙の際、佐野博は誤って自分の足を射ち、28日、市電新宿自動車出張所前で、31日には牛込の秀英舎印刷工場前石川島造船所前などで、武装行動隊は警官と闘い、これを殺傷した。

 この間に、総選挙直後、いわゆる二・二四事件の全国一斉検挙で、300名が検挙された。これがいっそう極左的傾向をつよめていった。だから、佐野博ら検挙のあとをうけて中央部ができ、これにソ同盟から帰国した今本文吉や上萩原景雄ついで岩尾家定らも加わり、極左的武装行動を批判しはじめたのだが、それはまだ力をもたなかった。しかも第二無産者新聞(「無新」)、無産青年(「無青」)、共産主義青年同盟(「共青」)、日本反帝同盟(「反帝」)、日本労働組合全国協議会(「全協」)、労働新聞(「労新」)等々内の党員に対する党の指導はきれがちであり、徹底もしなかった。おまけに、岩尾らの登場は時期おくれで、大勢は滔々として武装行動の方に流れていったのであった。

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 当時、私は、オルグに行っていた岡山から地方の革命運動の実状をつぶさにみて帰京し芝浦で道路人夫をしながら、出身組合=関東自由労働者組合(「関自」)の指導に参加していた。また鹿地亘の紹介で、東京西部の牛乳配達夫の組織者関根徳衛門、新聞配達夫の組織者島田らと協力し、関東畜産労働組合(「関畜」)の組織や、全産業労働組合会議(「全産」)内反対派結成に協力していた。さらに、4年末の東京市電大争議の応援組織に参加したのをキッカケに、東京交通労働組合(「東交」)内反対派結成を助けていた。そして、当時全体を支配しはじめていた極左的方針には、簡単に賛成しえなかった。

「邪魔立てする会社の奴や警官を武装デモで突破するのだ」

 当時、全協系組合の中で、大きな動員力をもっていたのは関自だけだった。また関自は党の武装行動隊を一番多くだしただけでなく職場でいろいろの暴力団と大衆的な衝突をくりかえしていた。従ってその書記長としての私は、自衛・武装問題で一番頭を悩ませた。そして、当時の滔々たる極左的な「武装闘争」の傾向に抵抗し、これを組織化する意図をもふくめて、「自衛団組織方針書」(「産業労働時報」所載)を起草し、組合執行部に採択させた。これは、大衆闘争から浮きあがり、逆にその展開を邪魔する一切の傾向、とくに、あやまった「武装闘争」と決定的に闘う肚をきめさせた。

 こうした空気の中にでた、長文の全協中央部の、メーデー闘争方針書は、当時の情勢を、直接的革命的情勢と規定し、明白に「武装蜂起せよ」と指令していた。また、無青は「党の指導でメーデーにはドイツのメーデーのように市街戦になるかもしれない」(3月16日付)とかき、反帝同盟のメーデー方針書も「ハンマーでも棒切れでも武器だ。メーデー参加を邪魔立てする会社の奴や警官を武装デモで突破するのだ」とかいたように、「武装デモ・武装行動」や「決定的闘争」が各方面で叫ばれ、さては「武装蜂起」が方針とされたのだった。

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