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連載昭和の35大事件

「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

「トンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」

2019/12/22

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

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官憲の弾圧と挑発をすべてかくし、全関係者に重罪を課した

 事実その日、川崎では大事件がおこっていた。全協のメーデー参加禁止に憤激した日本化学労組日本石油分会の阿部作蔵らは、鶴見署襲撃を企て、はやくから武器を集めていた。

 ところが当日、東京からきた「委員長」の指示で、当日の官許メーデーに突入し、これをひきいて鶴見署をおそう計画に変更したのだ。今その詳しいことははぶくが、その計画もやり口も、東京の場合とそっくりである。これをそのままうけとった人々は、各自ピストル・日本刀・メーデー旗、竹槍などで武装し、メーデー行進のあとを追って鶴見から川崎にはいり、メーデー会場に突入、「第一警戒線を突破し演壇近くまで進んだが発見され、官犬ダラ幹と大格闘をやり」(5月7日付「第二無新」)多数の負傷者をだしたのである。そして関係者は検挙された。

 翌6年8月25日の東京控訴院の公判廷で、土井喜久雄は、武装デモはどこまでも官憲の暴圧に対する防禦だと強調した。また当時、全協幹部として東京から行動隊をひきいていった程島武夫は、武装デモの本質について

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「消極的な正当防衛的な意味を有するに過ぎぬ」とのべた。しかし敵は、官憲の弾圧と挑発をすべておしかくし、阿部の懲役15年をはじめ全関係者に重罪を課したのであった。

 この武装メーデーに対する批判の先頭は、関自が5月10日に公表した「敗北の教訓に学べ」(「産業労働時報」所載)であった。ついで共産党内で自己批判がはじまった。これにもとづき5月29日の労新は「最近に現われたる全協の極左的傾向と戦え」、31日の無青は「我同盟の極左的傾向と戦え」、6月11日の無新は神田徹夫署名の「ボルシェビキ党の再建と極左的傾向に対する闘争の急務」をかかげた。

1930年5月2日の東京朝日新聞・夕刊

 これは、大衆獲得の任務は「無青が考えているように少数の武装した自衛団や『武装の問題』によって解決されるのでなく、更に全協の考えていたようにメーデーに於ける赤色組合除外の葬式行列が数人乃至十数人の武装した決死隊の参加によって革命化し得るものでは断じてない」とし、個人的武装行動を痛烈に批判し、これを最も危険な極左的傾向だと断じていた。

 この批判は一般的にみると当っていたが、すべてを無新・無青・全協の責任に帰してそれへの批判の形をとり、また、個人署名ですまして党の正式の自己批判の形をとらなかった点などに弱味をもっていた。

『武装デモ』という方針は実に大きな極左的誤謬であった

 また、同年8月のプロフィンテルンの決議「日本に於ける革命的労働組合運動の任務」は、極左主義、とくに武装デモ・工場破壊の方針などを批判し、「武装ストライキのスローガンを掲げ、メーデー準備の組織的公式を考え出した同志達を一時指導的仕事から止めさせなければならぬ」とさえいった。

 その後1年。赤旗44号にのった「一九三一年度メーデーの教訓」は、冒頭に「一九三〇年のメーデーに際し、吾々は『武装デモ』という方針をとった。それは実に大きな極左的誤謬であった。労働者大衆の現実的要求を敏感に取り上げて、そのこととメーデーの国際的意義とを緊密なる結びつけによって大衆を街頭の示威運動へ動員するということの代りに、少数の革命的労働者の大衆の気持とは全くかけ離れたところの英雄的行動によって、武装によって、大衆を指導せんとした。吾々はこの誤れる方針の結果、有能の闘士を牢獄に送るという失敗を得た」云々と、ややまともな自己批判をした。

 だが、これらの批判や自己批判は、なかなか末端まで浸透しなかった。しかも当時全体の政治方針は、7月に「政治テーゼ草案」の形で全貌をあらわしたように、日本の革命はすぐ社会主義革命をめざす、という極左的なものだった。従って極左的戦術(高津電鉄事件、京都の刑務所襲撃事件のような)は生きながらえ、6年のメーデーには、独自の「強力示威」や「合法メーデー粉砕」の線がでたり、少数精鋭主義の分散デモ戦術や、また個人的なテロ行為もあとをたたなかった。