労働者がギリギリの生活を守るため
こうした一般の空気のため、関自執行部にはいろいろの形で、メーデー武装闘争案がもちこまれた。全国的武装蜂起の方針はすでに否認されていたが、竹槍や棍棒や短刀などによる全員総武装の決死デモだ、という案がいつもでていた。本郷壱岐坂付近のシンパの家その他で開いた秘密の執行委員会で、いつもいつも武装闘争を強調したのは、7年9月、党が警視庁のスパイとして除名し、断罪した(いわゆる荏原事件)平安名常孝であった。
彼は、無新や無青の論文を根拠に、「今日の日本は武装蜂起の情勢、少くとも暴動=武装行動の時期だ」と強調した。
私は、「今日の情勢は蜂起の情勢、すなわち客観的革命的情勢ではない。武装蜂起のためには、第一に下層の大衆の圧倒的部分が死を決して生活防衛のために闘う決意をもつだけでなく、第二に支配階級が、この下からの圧力におされ、分裂し、動揺して政治する能力を失うような条件すなわち『国民的危機』が存在しなくてはならぬ。その上に第三。小ブルジョアジーの中に動揺がおこると同時に、労働者階級の前衛分子の間で、断固とした闘争決意と準備の存在が不可欠である。
ところが日本の今日の闘争の特徴をみればわかるように、たしかに日本の歴史上始めての高揚を示してはいるが、その数も量も少く、要求は首切と合理化に反対し、最低生活の保証を求めるものが圧倒的だ。闘争が長期にわたったり、闘争形態が鋭くなっているのは、労働者がギリギリの生活を守るためと、敵の弾圧が強いために余儀なくおこっていることだ。今必要なのは、蜂起や武装行動を組織することでなく、あくまで大衆的な下からの闘争を組織することだ」と反対した。
すると平安名は「貴様は日和見主義者だ。卑怯者だ。武器をとるのがこわいのか」と罵った。私は「貴様は馬鹿だ。武装蜂起の不可欠条件に関するレーニンの教えを知らない大馬鹿野郎だ」とどなりかえした。
武装メーデーの最も頑強な反対者が総隊長に
蜂起の話がまずくなると、彼は、4年のメーデーにデモを禁止されたベルリンの労働者が、武器をもって闘った事実などを引合いにだして、日本でも全協の参加が禁じられたのだから武装行動に入るべきだ、といった。私は私で、ベルリン・メーデー事件の際、ドイツ共産党がこれを組織化し、たくみにこれを収束した事実、さらに、竹槍や短刀や棍棒なんてものでの「武装」さわぎは、子供の兵隊ゴッコにも劣り、ただ敵の挑発を助けるだけだとわたりあい、二、三度はつかみあいになったほどだった。
ところが、他の執行委員の多くは完全に沈黙を守り、溝上は動揺をくりかえした。そのあらわれは、デモの目標が、はじめの東京市役所から、鐘紡東京工場へ変り、メーデー前夜に再び市役所へと変ったこと、デモの方法が、最初は、みな独自の武装デモだったのが、最後には合法メーデーに実力で参加し、これをひきいていくという風に変ったところにみられる。
そのいずれの場合にしても、結局は「これは上部の決定だから……」と、溝上がはじめに提案したものをおしつけてきた。私は、「決定なら決定でよろしい。それではすぐ、その具体化を相談しよう」とこたえると、かえって溝上があわてて、沈黙組の執行委員などといっしょに「まあ、まあ」と止めにかかる始末であった。
こんないきさつの上、武装メーデーの最も頑強な反対者であった私が、関自系行動隊の隊長に任命されただけでなく、当日の全行動隊の総隊長を命ぜられたのであった。 第11回メーデーの日は晴れていた。私は公私両面にわたる遺言を、留守部隊の関根に托し、10年以上――死刑までの覚悟をきめて淀橋のアジトをで、はじめの作戦根拠地にしていた愛宕山裏の墓地におもむいた。