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連載昭和の35大事件

「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

「トンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」

2019/12/22

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

note

「できないことは、できないよ」

 すると男は顔色をかえ「君が武装メーデーに反対していることはきいていた。君は今になって、その反対の立場から、この命令の実行をサボルのか?」と詰問的にいった。私は「武装メーデーに反対したことは、今でも正しいと思っている。だがそれが上部の決定だというので、組合執行部としても、それを承認し、僕は命ぜられるままに行動隊長となった。僕は今、君と論争しているのではなく、君のもってきた命令が実行できないと、隊長の立場からのべているたけだ」と答えた。

 すると男は

「この命令は、全協中央部の決定であり命令だ」といった。私は静かに

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「できないことは、できないよ」と答えた。途端に相手は威丈高になり

「これは同時に党中央の命令だ!」と叱りつけるような口調でいった。私は

「党のことについて、今君といいあう必要はない。要は、君のもってきた命令は、時間の関係上できないというにつきる。その命令は、党にだって、神様にだってできないことだよ」と答えた。

「では、君が命令を実行しない、ということを上部に報告してもよいのだね」と相手はいった。私は

「結構だとも。僕はすぐ街頭で行動隊長会議を開き、君の命令と僕の反対した趣旨を報告する。その結果、皆がそれでもやろうといえば何でもやる、皆が僕の意見を支持すれば、即時、行動はうちきる。その旨あわせて報告してくれ給え」と答えた。

 5分ばかりのこのやりとりで、メーデーデモに対する話は終った。そのあと彼は、党のビラまき隊――三乃至五隊の編成と派遣をもとめ、その自動車賃として例の5円札を私におしつけて去った。私はすぐ昭和通りにとって返し、街頭で歌川・堀口・大沼渉をふくむ隊長会議を開いた。会議は全員一致で私の報告を承認し、当日の行動をうちきる旨を決定し、同時にビラまき隊三隊を編成し、指定の場所に派遣した。

1930年5月1日の東京朝日新聞

命令に反して、武装メーデーをやらなかった。野郎殺してやる!

 この決定と、それにもとづく解散命令が通達された時、一部の人は、詳しい事情を知らないままに、声をしのんで口惜し泣きをし、他の人々は、ホッとしたような顔つきをしていた。そのどちらの場合にしても、はりつめた気のゆるみからがっかりし、やがて一部の人が深刻な敗北感にとらわれたことは事実である。

 私は今も、その夕方、芝の組合事務所でみた寺田貢(現共産党中央指導部付)のむくれ返った顔を忘れえない。また、こうした方向喪失と敗北感の中に、自殺し去った猪古勝太郎(熊本の産。アナ出身、後に関自に入る。労農同盟にも参加。党の協力者)の面影をも忘れない。

 余談だが、馬橋、山谷の武器製造所は、この朝襲撃され、私達の同僚笹森らが、すでに検挙されてしまっていたのである。

 1日の夕方、私は、かつて関自におり、当時、共青の仕事をしているといわれていた山善こと山田善右衛門が

「神山の野郎は太い野郎だ。川崎の労働者は、党全協の命令に従って武装メーデーをやったのに、神山の野郎は、党と全協の命令に反して、武装メーデーをやらなかった。野郎殺してやる!」といって短刀をもち歩いているという話をきいた。

 私はこの話をきいた時、その日のことについての情報としてはあまりに早いので驚き、かつ不審をいだいたが、表面笑ってきき流した(あとで山善がスパイだったことが判った)。