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連載昭和の35大事件

「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

「トンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」

2019/12/22

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

5000名の警官を配備した空前の警戒体制

 そこで私はまず、芝公園に集った50団体、約1万5000の労働者の空気、式典の進行状況について逐一報告を受けた。昨4年のメーデーに、関自の責任者として参加し、集合地芝公園における纐纈特高課長殴打事件や解散地越中島での渦巻デモに味を占めたわけではないが、今年も全協系組合を全部合法メーデーに参加させ、内部からこれを戦闘化すべきだと考え、関東地方組合会議に参加したのだった。ところが警視庁の禁止にあい、これへの抗議を組織中に上から参加禁止命令をくった。しかも、上は当初の独自武装デモの方針をあらため、急に、芝口で合法メーデーに合流し、これを市役所へ導く、と改めてきたのだった。

 また、敵の警戒状況もわかってきた。敵は芝公園はじめ、解散地上野公園および一里半にわたる沿道に、70署から動員した5000名の警官を配備し、特高の私服は特別警戒隊を組織して移動的に警戒している。これではメーデー参加者3人に1人の割合で、実に空前の警戒体制である。しかも、配備の重点は芝口にあり、昭和通りから銀座に通じる裏通りは、とくに厳重に警備され、これを突破することは、どの地点からにせよ極度に困難とみられた。

 この方面には機関銃が配備されている、という噂も伝わってきた。それは明らかに内外呼応しての挑発体制であった。

芝公園を埋めた大群衆(1930年5月2日の東京朝日新聞より)

 やがて、合法メーデーは出発しはじめたこと、そして、すぐ検束がはじまったことなどをきき、私も山をおりて宇田川町附近の電車道にで、行進隊のくるのをみた。先頭は組合同盟でいつものようにガッシリと腕をくんだ四列縦隊である。その前方も、両側面も中間も、アゴヒモをかけ、ゲートルを巻いた警官隊がとりまいている。例年とはちがった厳重さだ。それでも、検束覚悟ででてきた労働者の歌声は高く、闘志はわきかえっていた。

 ついで、沢山の見物人ややじ馬も加わり異常な緊張につつまれた芝口の街頭で、各行動隊長とあい、これを統括した。その時になって、動員目標が、市役所から議会に変更されたこと、詳細は上から直接私に指示されるということをきいた。私は呆れながらも、その指示をまった。合法メーデーの行列は、きめられた道順どおり、すぐ芝口にきてしまった。仕方がないので、各行動隊の隊長といっしょに歩道の見物人にまじり、ブラリブラリと三原橋の方に歩きはじめた。そのあとをおうように、当時3000といわれた行動隊が両側の歩道や裏通りに分散しながらついてくる有様は異様であった。

隊長としては受けるわけにはいかぬ

 自然芝口あたりから、各所で小ぜりあいがはじまり、若干の検束者もでた。この間自分でたしかめたことと、その後の報告を総合して、警察側が、市役所に対するデモよりも、議会に対するデモに対して、万全の対策と配備をしていることが判断された。そこに上から私をよびにきた。

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 江戸橋に近い横町の小さな喫茶店で、私は上の男にあった。見知らぬ小柄なその男は、いきなり

「総隊長は、三原橋で全行動隊をひきい、竹槍をもって合法デモにわりこみ、東京交通労働組合員の先頭にたち、全員で議会を襲撃し、ガソリンとボロでこれに放火すること」といいわたした。

 あまりのことに腹もたたなかった私は、

「竹槍やガソリンはどこにある?」ときいた。相手は

「竹槍は杉並の馬橋、ガソリンとボロは渋谷の山谷に用意してある。それをもってくる自動車代金はこれ」といって5円札を一枚だした。私はまたきいた

「君は合法デモが今どこにきており、東交が三原橋に着くのはいつ頃か知っているか?」と。彼は

「知らない」と答えた。さらに私は

「かりにすぐトラックを手にいれたとして、ここから馬橋と山谷にいって、それらの物件をここまでもってくるのに何分かかると思うか?」ときいた。相手は、またしても

「知らない」と答えた。私はいった。

「デモの先頭はもう三原橋をこえている。中堅の東交が三原橋にかかるのは、30分位あとのことだ。ところで、馬橋と山谷から品物をもってくるのは、いくら早くても1時間はかかる。だから君のもってきた指令は実行不可能だ。行動隊長としては受けるわけにはいかぬ」と。

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