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連載昭和の35大事件

「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか

「トンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」

2019/12/22

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

武装蜂起を事実上否認するメーデー闘争方針書

 とにかく私は、全協の武装蜂起の指令がどうしても納得できず、当時いっしょに深川水道局現場で働いていた溝上弥久馬委員長はじめ、他の執行委員を説得し、組合としては、情勢の特徴を経済恐慌と規定し、大衆行動を強調し、武装蜂起を事実上否認するメーデー闘争方針書を採用した(「産業労働時報」所載)。

 あとになってみれば、「武装蜂起」の方針は田中・佐野博らの「極左的小ブル革命主義」(6年5月20日の共産党中央委員会「檄」)を土壌とし、全協中央に潜入した「スパイ西山(神谷敏郎)」のまいた種だといえるかもしれない。後に西山がスパイだと暴露された時、全協は激怒して「スパイ神谷に赤旗死刑を宣告する」と声明した。しかし当時、武装蜂起の方針はスパイの方針としてでなく、全協中央部の公式指令としてきたものであった。

 スパイ西山を頭にいただく全協中央部は、党中央が和歌山会議で決定したヨリ健全な方針に反して、産業別組合なるものを機械的につくり、改良主義組合内の反対派を否認して全協分会を設け、全協加盟組合の地方協議会の結成を禁じていた。また、合法メーデーへの参加をも否認し、4月13日にひらかれたメーデー準備関東労働組合会議に、全協代表溝上、関自代表神山その他が出席したのを批難し、以後の出席を禁じてきた。

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奴等の武装には労働者の武装で答えろ

 最初指令としてでた「武装蜂起」の方針を、私たちは形式上一応うちやぶったわけだが、けれども、東京市電、鐘紡を頂点とする闘争の高まりに応じ、ちがった形での武装闘争が強調されはじめた。たとえば鐘紡争議に際し、ストライキ指導権を武装で奪取するというので「加盟組合に行動隊を作って集れ」と指令した。私はこれにも頑強に反対したが、討論の末、執行委員歌川伸(鳥取の産。兵役を忌避し海外を転々して帰国。アナ系江東自由労組の責任者。汎太平洋労働組合会議に参加。後、全協加盟東京自由委員長を経て関自執行委員。戦時中党再建運動に参加し獄死)を隊長とする行動隊をだした。

 ところがその担任者から、キリとトンガラシとビラを渡され「諸君身をもってやってくれ給え」とだけ命ぜられた。おとなしい、だが百戦錬磨の歌川はトボけて、百も承知の「東京工場はどこにあるか」、「どうしてはいるのか」ときいた。それに対して、まるで自分の子供位の担任者が「そんなことをきく奴は日和見主義者だ。ビラをまけ、奴らがきたら身をもってトンガラシで目ツブシをくわせ、キリでどてっ腹に穴をあけろ」とこたえた。歌川は苦笑し、キリとトンガラシを隅田川になげこみ、ビラだけはまいてかえってきた。

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 また東京市電ストの際、無新は「武装自衛団を組織してスキャップ共に徹底的な赤色テロを加えると同時に電力の輸送路を破壊し、電車自動車の運転機械をブチこわすこと」(4月24日付)を煽動した。事実、ダラ幹暗殺車庫焼打、電線破壊の行動隊が組織された。これをみて、「全員の武装」を主張してきた無新は「勇敢な行動隊員は追跡のスパイをドス、鉄棒でやっつけ、二名は瀕死の重傷でウンウン呻っているぞ。震え上った警視庁は今後密行スパイにピストルをもたすことになった。奴等の武装には労働者の武装で答えろ」(5月7日付)とかく有様であった。

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