解説:「記事差し止め」で“牙”を抜かれた新聞報道

 今回の本編も直接の当事者による回想で、よく引用もされている。しかし、それはあくまで「現在の体制を維持し、国家安寧を図る」側の一方的な言い分。そちら側に立てば、「温泉での秘密会議」を特高(特別高等警察)の刑事がかぎつけ、そこから検挙と組織壊滅に至る展開はサスペンス映画を見ているよう。「警視庁史 昭和前編」も「(共産)党首脳者は検挙を免れるため、地下に潜入し、ある者は海外に逃走するなど、これを追及する捜査陣の苦心は実に血涙秘話の連続であった」と書いている。

 本編の筆致も「捕物帳」のように読める。逆の側から見れば、風景は一変。「権力による暴力的な弾圧」となる。「日本共産党の八十年」は「天皇制政府は、総選挙を通じて国民の前に姿を現した日本共産党の前進を恐れ、全国一斉に大弾圧を行い、1600人に及ぶ日本共産党員と党支持者を検挙して、野蛮な拷問を加えました」としている。

大阪地裁に入る三・一五事件の被告たち(「写真記録昭和の歴史①昭和の幕開け」より)

 これ以上は踏み込まないが、この時、検挙されたのは約1600人。家永三郎ら編「近代日本の争点」所収の神田文人「吹きすさぶ大弾圧」は、「当時共産党員は409名であったというから、非党員までも一斉に検挙したわけである」と書いているが、その程度の表現ではすまないだろう。1910年に幸徳秋水らが逮捕された「大逆事件」は、全国で社会活動をしていた個人やグループが根こそぎ摘発されたことで知られるが、それに匹敵するほど、全国各地の社会運動家が“血祭りにあげられた”のではないか。最近になってようやく、北海道などの地域史研究の中で影響を捉え直す動きが出ている。

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特高の衣替えとして生まれた「公安警察」

 1つ書いておきたいのは、本編の筆者・纐纈彌三氏のことだ。戦前は大分県知事、戦後は公職追放・解除の後、衆議院議員を4期務めた。初代の警視庁特高部長で敗戦時の内務大臣だった安倍源基を筆頭に、特高関連部局のトップを務め、のちに国会議員など顕職に就いた元内務官僚は多く、大臣などになった人物もいる。

 敗戦で特高は廃止されたが、GHQ(連合国軍総司令部)と折衝した結果、「早くも(1945年)12月19日、GHQの了解を得て、(特高に)『代わるべき組織』として(内務省)警保局に『公安課』が設置された。各府県にも『警備課』が設置されていく。『公安警察』の誕生である」と荻野富士夫「特高警察」は書く。共産主義の拡大防止のために必要とされ、特高は公安警察に衣替えして生き延びた。

 彼らの「国事に携わった自負」は分かるとしても、小説「一九二八年三月十五日」で特高の拷問の残虐さを描き、5年後、自らも特高の拷問で死亡した作家・小林多喜二ら、獄死した人たちや家族のことを思えば、不公平な印象はぬぐえない。

作家・小林多喜二 ©文藝春秋