「『国民取り締まり』の文章や言議を公表するのを奇怪に感じる」
山室清「新聞が戦争にのみ込まれる時」を読んで、歌人与謝野晶子が三・一五事件について書いていることを知った。晶子は「大正時代から毎週1回の割で横貿=横浜貿易新報(現神奈川新聞)=紙上に進歩的で鋭い社会時評を寄稿」(同書)していた。「與謝野晶子評論著作集第十九巻」を見ると、記事解禁直後に2回、触れていた。
1928年4月15日の「国体の絶対性」では「私は百人や二百人の共産主義者の秘密結社が司法事件を生じたからといって、それに関連して、大げさにも『国体の毀損』を口にし狼狽しつつ、田中(義一)首相、鈴木(喜三郎)内相、水野(錬太郎)文相などが『国民取り締まり』の文章や言議を公表するのを奇怪に感じる」と、政府に厳しい姿勢を示している。以前から、当時の田中首相と内閣を毛嫌いしていたようだ。しかし、共産主義者を現在では活字にできないような言葉で表現。「わが国体の金甌無欠(国家主権が確立して外国に降伏したことがない)であることは絶対のものである」とするなど、いささかバランスを失した評論と言わざるを得ない。
4月29日の「国難と政争」は「共産党の秘密結社事件の真相を私は知らないが、少しばかりその事実が存在しているのを、現内閣が政略的に誇張して『国難』の感を国民に抱かせ、注意を転じさせて、内閣倒壊運動の気勢を弱めようという計画であろう」と指摘。比較的分かりやすい政府批判になっているが、問題の本質に迫っているとは言い難い。
「91年前のこと」と見過ごせない政府の言論弾圧
こうして見ると、三・一五事件をどう捉えるかは、共産主義と共産党、そして天皇制と正面から向き合うかどうかにかかっていたことが分かる。そして、ほとんどの言説は内務省、特高など、取り締まる側の論理に乗ったまま、問題の本質を捉えきれず、独自の視点を持てなかったといえる。よく新聞報道は「満州事変」(1931年)で軍部支持に変わったといわれる。
新聞記事の掲載禁止措置も「満州事変以来、差し止め件数もうなぎ上りに増え、1932年に差し止め件数はピークに達した」(前坂俊之「兵は凶器なり」)。その件数は64件。しかし、実際の新聞は満州事変より3年前に、政府の言論弾圧によって「牙」を抜かれてしまっていたのではないだろうか。最近のメディア状況を見ていると、91年前のことと見すごせない気がする。
本編「赤色戦線大検挙」を読む
【参考文献】
▽警視庁史編さん委員会編集発行「警視庁史 昭和前編」 1962年
▽日本共産党中央委員会出版局「日本共産党の八十年1922~2002」 2003年
▽家永三郎ら編「近代日本の争点」 毎日新聞社 1968年
▽荻野富士夫「特高警察」 岩波新書 2012年
▽楠瀬正澄「捜査戦線秘録」 新光閣 1932年
▽下里正樹・宮原一雄「日本の暗黒・実録・特別高等警察第1部『五色の雲』」
新日本出版社 1990年
▽石橋湛山「石橋湛山評論集」 岩波文庫 1984年
▽山室清「新聞が戦争にのみ込まれる時」 かなしん出版 1994年
▽内山秀夫・香内信子編集解題「與謝野晶子評論著作集第十九巻」 龍渓書舎 2002年
▽前坂俊之「兵は凶器なり 戦争と新聞1926―1935」 社会思想社 1989年