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報道の自由に反する「記事差し止めの通知」が届く

 本編にあるように、この「三・一五事件」では記事掲載禁止命令が出された。当時の新聞紙法第23条の「内務大臣は新聞紙掲載の事項にして、安寧秩序を紊(みだ)し、または風俗を害するものと認めたる時は、その発売及び頒布を禁止し、必要においてはこれを差し押さえることができる」という規定に基づいていた。報知新聞記者だった楠瀬正澄「捜査戦線秘録」にはその時のことが書かれている。

「『近く極左の連中の大検挙があるから、僕の留守中は頑張ってくれ。共産党の日本支部が組織されたというので、警視庁が秘密裡に大活動をしているから……』私の同僚であり、都下労働記者会の権威であるK君は、社用で出張する際に懇々と私に後事を託して行った」

「3月14日の夜、私は宵からの空気が妙に怪しいので、警戒のために自動車を飛ばして各方面を訪ねて回った。だが……纐纈特高課長も石井特高、浦川労働係長も自宅にはいなかった」

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「その夜は警戒を打ち切り、午前1時近く、社に帰って疲れた体をベッドに横たえた。ウトウトとしたと思うころ、私は守衛に揺り起こされた。『記事の差し止めですよ』。守衛の声にびっくりして飛び起きてみると、共産党大検挙の記事差し止めの通知だ。私はそのまま自動車で警視庁へ駆けつけたところ、数時間前まではヒッソリとしていた特高課は戦場のような騒ぎだった。午前5時を期して全国一斉に共産党員の大検挙が行われたのだ」

当局の描いた事件の構図に合わせた紙面に

 結局、記事が解禁になったのは1カ月近くたった4月10日の夕刊(紙面の日付は11日付夕刊)。そのことを紙面に載せた新聞もいくつかあった。朝日は「本日記事の差し止めを解除さる」と小さな見出しにしたほか、中外商業新報(現日本経済新聞)は記事のリードで「検挙と同時に記事掲載禁止となり、報道の自由を有しなかったが、4月10日午後3時、禁止一部の解禁となった」と明記している。記事の内容は五十歩百歩。それだけ報道管制が厳しく、当局の描いた事件の構図に合わせた紙面になってしまったのだろう。

 見出しを拾ってみても、「共産党の結社暴露し 全国で千余名大検挙 過激なる宣言綱領を作成して 画策した一大陰謀」(東京朝日)、「労農党其他二団体に 政府、解散を命ず 国家の基礎を危くするものとして」(東京日日)、「全国の大学、高校に 左傾思想弾圧の手 共産系の教授も罷免の方針」(国民新聞)など、当局の発表そのまま。解散を命じられた労農党幹部の談話なども載っているが、「国体を根本的に変革し、労農独裁政治を目論む」(東京朝日)と、司法省発表の事件概要を見出しにするような大勢の前では焼け石に水。

解禁された「三・一五事件」記事(東京朝日新聞)
「全国の大学・高校に弾圧の手」(国民新聞)