「子どもの体験」が高額化し、課金ゲーム化している。

 絵本作家の五味太郎さんと、教育ジャーナリストのおおたとしまささんが、子どもに体験を消費させる大人たちの「品」を問う。

*新刊『子どもの体験 学びと格差』(文春新書)で実現したインタビューを、書籍非掲載部分も含めて再構成してお届けします。

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©文藝春秋

大人がどれぐらいナチュラルになれるか

五味 偉人のことを考えたら、みんなとんでもない経歴だよね。ニュートンにしろダーウィンにしろ、いまでいえば問題児みたいなやつだもんな。だからあんまり平均的にみんなに同じ体験をさせようなんて考えると、そういう子はつまんなくなることは間違いないよね。

おおた 「あなたもこれとこれを体験しておいたほうがいいよ」と言われる時点で、何かが奪われますよね。

五味 「私は大学に行けなかったから、息子にはどうしても大学まで行かせたい」とか。「貧困の連鎖」というんだろうけど、これ、どういう理論だろう。私と息子は関係ないんだよね。

おおた そうですね。

五味 「わが子」じゃないんだよね。生物的なプロセスとしてはわが子なんだけど、人間的プロセスではわが子じゃないんだよ。別な人格なんだよね。それが本能的にわかってるかわかってないかってところで、これは本当に格差が出るよね。ここまで芯に迫ってみると、うちの親父、うちの母ちゃん、いいひとだったんだなと思います。

おおた というと?

五味 子どものころはものたりなくて。まったくこっちに向いてくれないし、「ふん」とか「あっそ」みたいな。「今日、学校でどうだった?」とか聞かれたことない。「今日、運動会だったんだよ」とか俺から言うけど、「あぁ、そう」みたいな。当時はちょっと冷たいなと感じたけど、ちょっと大きくなってからは「お前の問題だから」ってよく言われた。だから「自分の人生」っていう言葉を、抽象的じゃなくてね、赤ちゃんも生まれたときから自分の人生をやってるわけだから、自分の人生をどのぐらい自分が豊かにできるかっていうのを、まわりがサポートはしなくていいからフォローするぐらいかな。あるいは見守るっていうことかもしれない。もっと知的にいえば、その個人がどんな体験をしているか、その形を見てあげると、「ほぅ! 面白いね」って話もあるかもしれないし。

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おおた 体験している子どもをまわりが見ていて、それを面白がってあげる?

五味 いや、それは嫌いだな。面白がる必要もない。芸やることないもんな。褒めて育てるとか、下品だよね。夢中にさせるってのも下品だよ。「れる」「られる」「させる」って使役の言葉だよね。面白いなら面白いんだが、興味ないなら興味ないでいい。大人のほうがどれくらいナチュラルになれるかの勝負だよ。それは大人の問題だよね。子どもの問題じゃないよね。子どものために転嫁している大人の問題であり、それはもう永遠に続いているよね。

おおた はい。

五味 自分の人生に自分で丁寧にやってるやつは、子どもにはそう言わないよね。

おおた そうなんです!