昨今、子育てや教育現場で話題となる「体験格差」。
教育ジャーナリストのおおたとしまささんと、不登校支援の先駆者で、「川崎市子ども夢パーク」内にある「フリースペースえん」総合アドバイザーの西野博之さんが、体験格差という言葉が生まれる社会への違和感を語った。
*新刊『子どもの体験 学びと格差』(文春新書)で実現した対談を、書籍非掲載部分も含めて再構成してお届けします。
非認知能力を目的に「体験させる」おかしさ
おおた 今日は子どもの「体験」について伺いたいと思っています。いま、「体験格差」ということが指摘されています。本当はサッカーに通いたいのに言い出せない子がいる一方で、放課後を習い事で埋め尽くされていたり、週末もあっちこっちに旅行したり、キャンプしたりしている子どもがいる。そのような体験が非認知能力を高めることも強調されており、子どものころの体験の機会の差が将来の収入の差にもなると喧伝されています。
西野 遊びを通して結果的に、他者とコミュニケーションをとる力とか、感情をコントロールする力とか、困難から立ち上がる力とか、いわゆる非認知能力が身につくわけです。遊びは子どもが自らつくりだすものです。誰かから提供してもらうものではありません。それなのに、非認知能力を目的に「遊ばせましょう」になったとたんにおかしなことになります。そのためにお金を払うと、サービスの提供と消費になってしまう。そんなことをしていたら、息苦しさが、また別の形で増えるぞという気がします。非認知能力を目的にした“なんとか体験”みたいなものが行われるようになると、<子どもが自らつくり出した遊びを通じて楽しくいつの間にか非認知能力を身につけるという体験>が奪われてしまいます。親がやらせたい、やったほうがいいというものを子どもはやらされることになる。
おおた いわゆるお勉強的な知識の習得だって、子どもが自ら遊びのように取り組んでいるときは楽しいものだったはずです。でも学校というものができて、やらされて、評価されて、比べられる構造になってから、つまらないものになってしまいました。能力の獲得が目的化すると、子どもの学びはどんどんつまらないものになっていく。それと同じことが、いま体験の分野にまで広がろうとしているわけです。このままでは<学校の外の学び>の躍動感までも奪われかねません。
西野 子どもが自分の頭や感性で、自分のやりたいことをやれる環境を求めているのは明らかです。だから、川崎市子ども夢パーク(以下、夢パーク)では「大人の良かれは、子どもの迷惑」という合言葉をつくりました。大人が良かれと思って差し出すメニューを、子どもたちはいつも、親に先生に大人たちに気に入られるように、こなさなければならない社会になっているわけじゃないですか。「大人が求める子ども像」によってどれだけ多くの子どもが苦しんでいるか。もっと子どもの発想を信じるべきだと思います。