子どもが息苦しくなっているのは大人の「やらせたい」のせい
おおた 未来をつくり、未来を生きるのは子どもたちなのに、現状の社会に不安を抱く大人たちがその発想の枠組みの中に子どもたちを押し込めようとしてしまうのはもったいないと思います。
西野 たしかに体験は大切なんですけれど、非認知能力の獲得を目的にした体験ブームには要注意です。おおたさんはよくそこを嗅ぎつけてくれました。現場にいるとよくわかりますが、子どもが息苦しくなっているのは大人の「やらせたい」のせいです。なんでも効率が求められてしまう世の中で、非認知能力まで効率よく手に入れようとする発想が広がっています。
おおた 屋外に幼児を放牧して、子どもたちが「いいこと思いついた!」という感じで遊びをつくり出して学ぶ「森のようちえん」という保育スタイルがあります。その結果、やっぱり非認知能力が育っていたという研究結果を報告する新聞記事がネットに掲載されていました。その記事に対して、「理念や取り組みは素晴らしいが、経済的にも時間的にも余裕がある一部のひとにしか享受できない。体験格差も指摘されるなかで、もっと手軽に誰でも非認知能力を高められる取り組みはないものか」というような意見もあったんです。
西野 それは森のようちえんに入らなかったら手に入らないものではないですよね。
おおた 森のようちえんを、非認知能力を授けてくれるサービス業としてとらえているわけです。ちょっと恐ろしくなりました。非認知能力の価値がプレミア化していて、なんとしても手に入れなければいけないという強迫観念を抱かせていることの裏返しですよね。体験格差があり、そのせいで非認知能力に差がつくといわれたら、わが子を格差の“負け組”にしたくない親は、効率よく非認知能力を与えてくれるサービスを求めます。
西野 非認知能力を目的にした体験という発想はやめてほしいけど、ただ一方で、私たちもかかわっている生活困窮者支援の観点からすると難しいところがあります。たとえば、自分でごはんをつくって食べるという体験すらしていないひとがいます。つまり、生活保護費で弁当を買って、食べて、ゴミを捨てているだけだから。鍋釜包丁をもっていない。このひとたちにとって、生きていく意欲が湧きづらいよねという話は僕もしてきちゃったから。
おおた そこはもちろんやらなきゃいけないことだと思います。
西野 生まれたときから、働く大人を身近に見ていない。ごはんをつくって食べるという生活をしたことがない。何のために学校に行って、何のために仕事に行くのか、わからない。だから、就労意欲も湧かない。そういう意味での体験格差はあるよなと思います。でも気持ちが悪いのは、お金がないと、子どもが非認知能力を得られないかのような論理ですよね。
