「あの子はディズニーランドに7回も行ってずるい」

おおた ごはんをつくって食べる生活を知らないような家庭に必要なのは、「何かの体験に参加しました」という事実ではなくて、社会と繋がり、包摂されることですよね。食事に関していえば、牛丼屋さんやカレー屋さんの金券をもらえればおなかを満たすことはできるかもしれませんが、彼らに必要なのは、子ども食堂みたいなところで、つくってくれたひとの顔を見ながら、仲間に囲まれて食事する体験ですよね。何かを学ぶという意味での体験に関していえば、キャンプや遊園地に使える金券をもらうことよりも、夢パークのようなところでみんなと遊ぶ体験をすることですよね。

半分オープンエアの体育館のようなスペースで運動も ©おおたとしまさ

西野 体験格差といっちゃえば、お金持ちはいろんな体験ができるかもしれないけど、大切なのは子どもがしあわせになれているかどうかです。「あの子はディズニーランドに7回も行ってずるい。私なんて1回しか行ったことがない」って泣いてた子が昔いたんだよね。「それって泣かなきゃいけないようなことなの?」って思ったことがあります。問題は、7回行けた子のほうがしあわせだと思わされちゃう社会ってことですよね。1回しか行けない自分はかわいそうだと思わされている。ひと言でいえば、消費者的マインドの内面化です。

おおた 高度成長期以降の、大量に消費しているほうがしあわせだと思い込まされてきた社会の延長線上に、いま子どもの体験までもが置かれてしまっているということですよね。その価値観でいくと体験も少ないより多いほうがいいし、体験が多いほうが将来大量に消費できるひとになれる確率が高まるから、やっぱり体験は多いほうがいい、みたいな、ちょっとトートロジーっぽいループにはまります。本来ひとと比べようもないはずの「体験」という概念に、「格差」という比較ありきの言葉をくっつけてしまう社会ってなんなんだろうという強い違和感があります。

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西野 38年間不登校の子どもたちとかかわってきて感じるのは、大人がよかれと思って用意したパッケージを、喜んで受け取らなきゃいけないつらさ、悲しさ、苦しさみたいなものがあるということです。そこに主体がないんだよね。大人が子どもを喜ばせてあげようという関係性自体に子どもは気づいています。はっきりいえば、それがうざい。子どもに体験させてあげようと思って大人が差し出すものに、子どもの主体はあるのか。

おおた 「本人がやるって決めたんです」ともよく聞きますが、大人たちの気持ちに無意識的に忖度していることも多いわけです。それは本当の主体性なのか……。消費型社会の価値観をもって子どもたちを見ると、かわいそうな子と恵まれている子がくっきり分かれます。それは「格差」といえば「格差」かもしれない。でも、そういう軸で子どもを見てしまうこと自体が、子どもの自己像をつくってしまいかねないと思うんです。

西野 そうなんだよ!

次の記事に続く 「体験が足りない、かわいそうな子」…お金がかかる体験を重視する親が知らない「しあわせの原体験」とは