「太平洋横断大飛行計画」サンフランシスコまで全行程1万208キロ
吉原は佐賀県出身。旧制中学時代から飛行機製作に熱中し、機械製作所での研究を経て操縦士免許を取得。ドイツに留学していた。前の体制時の企画だったが、この「成功」が野間社長に与えた刺激は大きかった。
「報知新聞社に帰るや、編集局の真中に据え付けてある大卓上に突っ立ちて、吉原飛行士の成功をたたえ、今次の壮挙完成が一新聞の事業というよりも、国家的大事業であり、人類社会の文化と幸福とに寄与するところが少なくなかったゆえんを説き、かかる難事業を完遂するには不屈の勇気と不撓の努力とが必要である。全社員渾然一体となり、この精神を以って邁進するならば、いかなる難関も突破し得るであろうと言って、火のごとき熱弁を振るった」と「野間清治伝」は記述している。
1931年2月11日の「紀元節」に報知は「太平洋横断大飛行計画」を社告で発表する。
「北太平洋をアリューシャン、アラスカ経由で横断し、サンフランシスコまで全行程1万208キロ。使用機は『報知号』と同じユンカースA50型80馬力の軽飛行機。水陸両用の万能型である。4月15日、小泉又次郎逓相(逓信相)によって『報知日米号』と命名された」(「世紀を超えて」)。日本でも有数の飛行家を得て自信満々だったようだ。2人の「清治」の強力なリードで計画は進められる。
太平洋横断飛行ブームの時代
この時代、航空機は新たな輸送機関として注目され、新航路の開発が世界的に進んでいた。本編も「太平洋横断飛行ブームの時代であり国際的な航空競争の時代」と書いている。「このころ、世界の航空界の話題の中心は、どこの国の誰が最初に北太平洋横断飛行に成功するか、であった。大西洋は昭和2年、リンドバーグによって翔破されている。残っている最も注目される航路は北太平洋だった」(「人間野間清治」)。
5月の吉原飛行士の「報知日米号」出発の際、「その模様はJOAK(NHK東京放送局)からも(ラジオ)放送され、応援歌は響き、吉原飛行士の名は小学生にも有名であった」と星山一男「新聞航空史」は書いている。
その後の失敗は本編に詳しいが、「新聞航空史」は「原因は気化器の凍結で、5月とはいえ千島の上空は気温が低く、ガスに突っ込んだので凍結しやすい条件となり、何の防氷設備も持たない報知機では無理であった」と明瞭に指摘している。要するに研究・準備不足だったということだろう。