文春オンライン

連載昭和の35大事件

雑誌王・野間清治が果たせなかった、「北太平洋横断飛行計画」とは何だったのか

北太平洋横断飛行は報知没落の弔鐘となった

2020/01/12

source : 文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア

note


「ところが昭和7年3月29日、ニューヨーク郊外のフロイド・ベネット空港で、試験飛行中の『報知日の丸号』が突如墜落、名越大尉は殉職した。続いて5月16日、オークランドで試験飛行中の『報知日米号』もまた着水に失敗、吉原飛行士と大石辰弥機関士が重傷を負い、この計画も実現不可能となった」(「世紀を超えて」)。つくづく悲運というか、どうしてこれだけトラブルが続くのかと思うほどだが、その結果、「第三報知日米号」による「第6次」だけが残った。

©iStock.com

 本編の筆者は同業他社の航空記者だが、当時は激しい競争の一方で、同業の連帯感もあったようだ。第三報知日米号が東京・羽田を出発した際、東京朝日は9月11日付夕刊2面に2段で「報知日米号 第一航程へ」という写真入り記事を載せている。

報知の計画や捜索に対して非難の声も

 実はこのころ、朝日も同様のトラブルに見舞われていた。報知機が青森で出発待ちをしていた9月15日、「満州国」の首都新京(現長春)から日本海横断に向かった2人乗りの朝日機が行方不明に。このころの朝日の紙面を見ると、自社と報知の不明機捜索の記事が競うように載っている。

ADVERTISEMENT

 そして、報知の9月25日付夕刊は華々しい。「愈(いよい)よ太平洋制空へ!」の大きな横見出しの下に3人の写真と「第三報知日米号勇躍 今朝壮途決行」などの見出し。「各地通過時刻」の表示と、「快報をお待ちください」という本間機長の談話そのままの見出しも。前日には号外も発行していた。しかし、その後の経過は本編にある通りだ。「新聞航空史」は「一時は報知の計画や捜索に対して非難の声も出て、関係者はつらい立場に立たされた」と書いている。

「第三報知日米号」出発を大きく報じる報知新聞記事

 それから3年たった1935年12月28日付朝刊で、報知は4ページにわたって『太平洋横断飛行の経過』を掲載した。「内外から寄せられた同情に感謝、計画断念に関して遺憾の意を表した」「全国から13万6000余円の寄付金が集まったが、本社は結局57万5000余円を支出。その分は全額野間個人が負担した」(「世紀を超えて」)。確かに「殉職奉公の英霊を弔い 中外の御同情を謹謝す」の大見出しで「帝国飛行協会へ拾五万円寄附」とある。しかし、「経過」を詳しく説明して「目的を達することができなかったのは」「誠に遺憾恐縮の極み」と書いたものの、「計画断念」とは明記していない。