昭和7年、国庫補助をはじめとして全国から零細なる寄附金をたんねんに募集して企図された報知機が太平洋横断飛行中、忽然としてその消息を絶った事件の真相!!
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「悲運の北太平洋横断機」(解説を読む)
ベルリン東京間1万1000キロを11日で翅破した「空の英雄」
わが国航空史上で、かつての報知新聞社が主催した北太平洋横断、日米親善飛行計画ほど悲運に見舞われたものはなかった。
雑誌王野間清治氏が報知新聞の経営に乗り出して、新聞界をも制覇しようと意気軒昻たる昭和5年8月、当時ドイツにあって航空研究中だった青年飛行士吉原清治氏が8月20日ユンカース・ユニオールA50型軽飛行機(アームストロング・シドレー・ゼネット空冷式80馬力)を単独操縦して、ベルリンのテンペルホフ空港を出発してスモーレンスク―モスコー―セイマ―カザン―ノボシビリスク―オムスク―クラスノヤルスク―ヴェルフネウジンスク―チタ―ハルビン―京城―大阪―立川のコースを悪天候と闘い、また米国ロスアンゼルス市を出発した在米邦人飛行士東善作氏のトラヴェル・エア型「東京」号と東京へのゴール・イン競争に打ち勝ってベルリン東京間1万1000キロメートルをたった11日間で翅破して、一躍「空の英雄」になった。
野間清治氏はこの「空の英雄」吉原飛行士を報知新聞社の嘱託にして、次の大飛行計画を早くも企画したのであった。
報知新聞社による「大飛行計画」
当時、帝国飛行場会参事で審査員だった安達堅造予備中佐は逓信省嘱託として欧米航空事業視察をした経歴もあり、また大のドイツびいきでもあった。この安達中佐が野間社長と吉原飛行士との間にあって、世間をアッといわせる大飛行計画の企画を決めたのであるといわれていた。航空については飛行の知識もない野間社長は安達中佐の大風呂敷的な計画に一も二もなく惚れ込んでしまった。
「吉原飛行士の人気があるうちに、同君の慣熟しているユンカース軽飛行機で、北太平洋をアリューシャン列島の飛び石伝いに飛んでゆけば日米親善飛行にもなり、目下、太平洋横断飛行競争時代でもあるから、これを主催した報知新聞社の名声は日本のみならず、国際的にもあがる事必然です」と安達中佐は進言したのであった。吉原飛行士も既に空の英雄になっていたので「己の技倆」を過信し、やや増長慢となっていたので、この飛行計画に賛成した。
そこで野間社長は、この大壮挙を国民的事業とする方が得策だとして、国庫補助、十四宮家、三井三菱はじめ財閥は勿論、全国の小中学生などから零細な寄附金をたんねんに募集した。
こうすることによって北太平洋横断飛行の成功を期待する国民的熱情を繫ぎ止めて、同時にその報道によって報知新聞の勢力拡張を計り、これ正に一石三鳥の妙手としたわけであった。