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6回の挑戦、4人の飛行士の死で終わった「大飛行計画」

 事ここに至っては報知新聞社としても如何とも致し難い窮地に陥ってしまった。副社長寺田四郎氏は法学博士ですべてを法律論でやると報知社内でもとかくの評があったといわれるが、寺田博土ならずとも三勇士の行方不明の処置は民法第30条による満3ケ年間を経過せねば「死亡」の断定が下せない。しかも巷間に本間中佐生存説などのデマが飛んで「東京で姿を見た」いや「本所区内に隠れ家がある」「佐々木と変名している」などと諸説紛紛としていたが何れも何ら根拠もないものだった。

 そして3年を経過した昭和10年12月28日附報知新聞は第7-10頁の4頁にわたってその第六次に及ぶ飛行計画書の報告をして「一つもその目的を達することの出来なかったのは遺憾恐縮の極みである」とし、小学生などの学生、青少年団からの寄附金3万千余円を含めて、総寄附金は13万6000余円であったがこのうち前者は返金する処置がとられたと記憶する。

 六次に亘る飛行と4飛行家の死、2飛行家の負傷などで経費の総決算は57万5400余円の赤字となっていた。何れにしても当初安易な企画の下に着手された北太平洋横断飛行計画事業は予期に全く反した結果となって、この赤字は野間清治社長が個人寄附の形で補塡した。然し報知新聞社の有形無形の損害は到底金品では計ることの出来ないものがあったろう。

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 それかあらぬか報知新聞の頽勢は蔽うべくもなくなった事は事実であった。事を成すのに頭初の判断の誤がかくも重大な結果をもたらすとは恐ろしい事だ。

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担当技師が沈黙していた“重大なる秘話”

 此の稿を脱稿せんとした時、筆者は重大なる秘話を航空界の某名士から知らされた。それは第三報知日米号が淋代離陸の際立会った三菱航空機の神田技師が同社に帰ってから、ある日。

「実は不思議でならぬ事があるんだ。あの第三報知日米号はたった4.5時間の燃料しか積まなかったのだ」

 と洩らした。

「何故、そんな重大な事を沈黙しているんだ」

 と問いつめられた神田技師は、

「それは新聞社の事業計画だから、他人には窺い知ることの出来ない事情があったのだろうと自分ひとりで考えていて、今まで口外しなかった」

 と答えたということであった。

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 神田技師のいうところが真実ならば淋代出発の時、50メートルの滑走で、尾橇が浮き上り、650メートルで浮揚したのも判るような気がして、むしろ、操縦者は浮くのを押えて滑走をつづけたであろうと想像される。

 今はこの謎を解く術もない。神秘の謎と共に北洋の涯に亡き人となった三勇士や野間杜長も浅井兼吉飛行士、同社の航空記者山本幸重氏、安達中佐も今は此世を去っている。ただ一人吉原清治氏はその後の世間の荒波にもめげず、持前のタフな性格から北九州で生抜いていてグライダーなどに興じているという。

 終にこの稿を同飛行計画にたずさわった人々の霊に棒げるものである。

     (筆者は当時毎日新聞航空記者)