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連載昭和の35大事件

日米親善・北太平洋横断で消息を絶った飛行機はどこへ?――技師が明かした“驚きの証言”

「4.5時間の燃料しか積んでいなかった」

2020/01/12

source : 文藝春秋 増刊号

genre : ニュース, 社会, 歴史, メディア, 政治, 国際, 企業

「あれじゃ太平洋横断どころか国内飛行も危なっかしいよ」

 かくて、飛行計画が紙上に発表された。乗員は国宝的飛行士吉原清治氏、使用機はユンスカース・A50型水陸交替機、同機は昭和6年4月6日当時の小泉逓信大臣によって「報知日米号」と命名された。与謝野晶子女史は“我国に若人ありて飛越えん太平洋と知らざりし哉”と詠って壮挙を祝福していたがそれは一般国民の感情でもあったろう。

 その年の3月30日、吉原飛行士は水上機の訓練をうけるために霞ケ浦海軍航空隊水上機に愛機と共に来ていた。主指導官は渡辺薫雄(しげお)大尉であった。

 吉原飛行士は元来「操縦が荒い」人だった。訓練第一日の着水でたちまち浮舟(フロート)と胴体をつなぐ支柱をひん曲げてしまって修理せねばならぬ事になった。当時、渡辺大尉も筆者に「吉原は駄目だね、あれじゃ太平洋横断どころか国内飛行も危なっかしいよ」と洩してその荒い着水にホトホト呆れていた。その練習振りを目撃していた筆者に吉原飛行士が「記事にせぬように」と人を介して頼んで来たので「他社の事業につまらぬ“けち”をつけるような事はせぬから安心し給え」と慰めた事を想い出した。しかし不幸、渡辺大尉の言葉は正しく適中したのであった。

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北太平洋コースの序の口で墜落

 同年5月4日、未だ完成していない羽田空港側の海老取川には「報知日米号」が晴れのスタートを待ち、官民の盛大な歓送式が挙行されて、JOAKから中継実況放送が行われた。

 吉原飛行士は颯爽と機上の人となって、水土滑走の後同午前10時7分離水して晴れの壮途についたのであった。やがて果せるか消息を断ったので、農林省の白鳳丸はじめコース附近にいた千山丸、いなば丸に捜査を依頼し14日午後5時45分、白鳳丸によって新知湾外を漂流中の吉原機は救助された。流石自信過剰の吉原飛行士も北太平洋コースの序の口で壮途空しく破れては逆に自信喪失となってしまった事は真実のようであった。

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 然し報知新聞社としてはあれほど天下中外に発表した飛行計画であるから簡単に中止するわけにはゆかない。この頃は太平洋横断飛行ブームの時代であり国際的な航空競争の時代でさえあった。故に報知新聞としても前述の如き経緯よりして、あく迄も頭初の計画を遂行し、新聞界に覇を唱えんとしたのである。だが、悲運は繰り返しこの壮挙を襲い、遂に第六次に迄及んだのである。何処までも悲運の連続ではある。