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三浦 瑠麗
2014/09/02

日本に平和のための徴兵制を

豊かな民主国家を好戦的にしないために老若男女を問わない徴兵制を提案する

三浦瑠麗

 集団的自衛権の行使容認は、戦後安全保障のコンセンサスから一歩踏み出した転機であった。リベラル陣営は日本を「戦争ができる国」にしようとしているとして安倍政権を非難する。反対論の多くは、国民の意思とは別に法律家の解釈を守ることで政府の手を縛り、結果的に平和を達成するという発想に基づいている。だが、実際の軍事介入の判断は民主主義のプロセスを通じて行われるのだから、民主主義を否定する形での平和論は脆弱なばかりか民主主義を弱くする危険をも秘めている。そろそろ日本にも民主主義が平和に資する判断を導くための議論が必要なのではないだろうか。

 翻(ひるがえ)って現代の米欧世界では、安全保障論議を巡る構造はまるで違う。そこでは、人道や民主主義の理想に基づいて積極的介入主義を取るリベラルなタカ派と、伝統的な安全保障観を有し介入に懐疑的な保守派が対峙している。そこで行われている主要な戦争は、二〇〇三年からのイラク戦争が典型だが、専門家たる軍の「やめた方がよい」という助言に反してまで、政権や国民が始めた「シビリアン(文民)の戦争」であった。現代の豊かな民主国家では、軍は厳正なシビリアン・コントロールの下にある一方で、戦争に行くことを観念しえない国民が兵士の派遣を判断している。戦争のコストは国民には実感されず、結果として安易な戦争が繰り返されてしまうというのが実情なのである。

 現代の戦争が国民の賛同する戦争である以上、それを防ぐ砦は、国民各々がその都度戦争を思い止まるということでしかありえないはずだ。日本を戦争ができる国にしたくないのであれば、本質的には戦争の血のコストを平等に負担する徴兵制を導入して、国民の平和主義を強化する他ない。これが、平和と民主主義を両立させる、過激で、苛立たしい、それでいて避けがたい唯一の解決策なのである。抵抗のある方も多いだろうから、平和のためになぜどのような徴兵制が必要なのか、歴史の流れの中で論じてみることにしたい。

「冷戦後」に対応できなかった日本

 今の日本が何とか順応しようともがいているのは、言ってみれば「冷戦後」という状況である。米ソ双方が対イラク攻撃に同意し、広範な諸国が派兵した九一年の湾岸戦争は、冷戦終結を象徴する出来事であった。この時点をもって、日本における国内冷戦も瓦解した。反米非同盟を理想としてきたリベラル陣営は、自衛隊の海外派遣に反対することでしか自らの安保思想を支えられなくなってしまう。かつては主流であったその立場は次第に掘り崩され、国民の支持を失っていく。

 他方、「普通の国」化を推し進める保守派や外交安保専門家は、共に湾岸戦争において日本が膨大な資金協力をしたにも拘(かか)わらず、当初自衛隊を派遣しなかったことで失望されたトラウマが出発点にある。こうした立場からは、イラク派遣に続く一連の安全保障法制の再編成を、控えめながらようやく世界基準に近づいたと捉える声が多い。実際、集団的自衛権行使容認は国際的にはさしてインパクトはない。その画期性はあくまで日本の外交思想の転機という意味においてである。

 ところが、冷戦後や九・一一後の世界は、目まぐるしく変化している。日本人が閉ざされた歴史的経緯と左右対立を抱えて思い惑っているうちに、世界の人々ですら、自身がどれだけ遠い所まで来てしまったのか気付かない程だ。敗戦国の制約から抜け出し、「普通の国」として大国間協調の輪に加わろうとした日本が冷戦後だと思っていた世界は、いつの間にか人道目的でユーゴや中東、アフリカの内戦に軍事介入し、民主化を掲げる正義の戦争が当たり前の時代であった。正義の戦争の現実は、現実主義を掲げて国民国家主体の世界観を持つ保守派には到底なじめない考え方であった。