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五味 洋治
2016/09/19

映画でも小説でもない、驚くべき諜報の世界

『最高機密エージェント CIAモスクワ諜報戦』 (デイヴィッド・E・ホフマン 著/花田知恵 訳)

source : 週刊文春 2016年9月15日号

genre : エンタメ, 読書

一九七七年冬、モスクワ市内の市場に止まった車に、五十代のロシア人男性がひそかに近づいた。車のナンバーには、米国大使館車両を示す「D-04」があった。男性は、運転していた大使館員に手紙を渡し、姿を消す。中には、ソ連軍用機の機密情報と、「さらに協力できる」との伝言がさりげなく書かれていた。

 米ソが厳しく対立していた冷戦時代のこと。CIAは、KGBの罠ではないかと警戒したが、情報の価値を無視できず、男性との接触に乗り出す。

 男性はトルカチェフというレーダーエンジニア。その後六年間に二十一回CIAの担当者と会い、数千ページの軍事機密を提供し続けた。後に「ビリオンダラー(十億ドル)スパイ」と呼ばれることになる、この本の主人公である。

 トルカチェフは、勤務していた研究所から資料を借り出して、自宅やトイレに持ち込み、CIAが開発した特殊な小型カメラなどを使って大量に複写した。

 そこにはソ連が開発中だった戦闘機、迎撃機のレーダーなどの能力や開発計画に関する論文があった。なんと十億ドル以上の価値に相当し、その後の米国の軍事的優位を決定づける。

 CIAの担当者は、KGBの尾行をかわすため、変装し、公共交通機関を乗り継いでトルカチェフと会う。金銭報酬だけではなく朝鮮人参や胃薬も渡し、彼の健康に気を配った。彼の息子が欲しがる西洋の音楽や、文房具も準備していた。

 これは映画でも小説でもない。全てが事実だというから驚く。ワシントン・ポストの敏腕記者が、CIAが機密解除した千ページ近い記録と関係者の証言から、当時の接触を緻密に再現した。スパイ映画も描けなかったスリリングな諜報戦の現実といえる。

 トルカチェフの動機は、「内部から腐っている体制に打撃を与える」ことだった。行動は次第に大胆になり、CIAの忠告も聞かない。監視が強められ、意外な結末を迎えるが、詳しくは書かないでおこう。

 私は北京勤務時代、中国の公安機関に尾行され、取り調べを受けたことがある。国家情報機関の動きも多少知っているつもりだ。

 精度の高い偵察衛星が上空から見張り、携帯電話の盗聴や、メールの盗み読みも日常的に行われている。

 しかし、本当の機密情報は、相手と信頼関係を築いて入手するしかない。本書には、まだハイテクが発達していなかった冷戦時代、CIAが試行錯誤の末に築いた情報収集のノウハウが詰まっている。この分野に関心のある人には、ぜひ勧めたい一冊だ。

David E.Hoffman/1953年カリフォルニア州生まれ。「ワシントン・ポスト」紙記者・編集者。アメリカ公共放送PBS特派員もつとめる。モスクワ支局時代の見聞をもとにして書いたピュリッツァー賞受賞作『死神の報復』(白水社)も発売になった。

ごみようじ/1958年長野県生まれ。東京新聞編集委員。著書に『父・金正日と私 金正男独占告白』『女が動かす北朝鮮』など。

最高機密エージェント: CIAモスクワ諜報戦

デイヴィッド・E. ホフマン(著),花田 知恵(翻訳)

原書房
2016年7月25日 発売

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