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特集
「哲学」の時代 哲学者連続インタビュー

何も信じられなくなってしまった時代に、デカルトの哲学が生まれた

――真理を扱う哲学は政治に関われないとなると、じゃあ哲学って何ができるんだ、と思ってしまうのですが……。

國分 アーレントは本当にすぐれた哲学者ですが、今言ったような理由から哲学の歴史に対して批判的でした。だから彼女は「自分は哲学者ではない、政治学者だ」と言ったりしています。アーレントが「哲学は真理を扱う」と言った時には既にそこに批判の意味が入っているわけです。僕自身は「哲学は真理を扱う」という命題は半分正しいけれども、半分間違っていると思っています。というのも、哲学は漠然と真理を考えているわけではないからです。「人間とは何か」とか「時間とは何か」とか、哲学は漠然とそんなことを考えているんじゃないんです。哲学は常に問題を考えているんです。突きつけられた問題に応答しようとしている。

 

 たとえば僕の専門の17世紀の哲学者にデカルトがいます。デカルトの有名な言葉がありますね。「我思う故に我在り」というやつです。あれにしても、漠然と「私とは何か」とか考えていたわけじゃない。当時は宗教改革の後で、教会の権威も低下し、宗教戦争ばかり起きて、何も信じられなくなってしまった時代です。そういう時代にいったいどこに根拠があるのか、どこに確かなものがありうるのか、そういう問題に対する応答を突き詰めたところで、デカルトはあの命題を発見する。しかし、あの命題が真理かどうか、よく分からないわけです。僕なんかは真理じゃないと考える立場ですが、もしかしたら真理かも知れない。とはいえ、デカルトは問題に答えたのです。だから哲学というのは問題に対する応答であり、その副産物として、時折、真理が発見されると考えれば良いと思います。大切なのは真理じゃなくて問題なんですね。

――哲学を学ぶというと、その問題の方ではなくて、あとから出てくる真理の方だけを学ぶイメージがあります。

國分 そうですね。哲学を教える側もそうなってしまっている。哲学を教える側に、自分自身で問題にぶつかって、その問題に答えようとした経験がなければ、このことはうまく伝えられないのかもしれません。僕が哲学を教える時には、1人の哲学者がどういう問題にぶつかって、どういう風に葛藤して、どういう風に答えを出したかを体感してもらおうと思って授業したり本を書いたりしています。そうすると、突然、哲学が生き生きと具体的に見えてくる。

最近僕の仕事が多い。時代が混乱しているのでしょう

――逆に、問題がないときは哲学っていらないということになるんですか。

 

國分 そうですね。ソクラテス以前の哲学が始まったのは、ギリシアから植民したイオニア地方でこれはいまのトルコのあたりですが、植民したばかりの都市国家はとてもうまくいっていました。哲学が盛んになるのは、都市国家がうまくいかなくなってからです。プラトンだって、アテナイの腐敗が極まった時点で登場しているわけです。歴史を見ると、哲学者が集中的に現れる時期というのが確かにあるんですが、たとえば僕が専門とする17世紀もそうです。デカルトだ、スピノザだ、ホッブズだ、パスカルだってワーッとすごいスピードで哲学者が出てきた。17世紀というのは近代の開始点と言ってよいと思いますが、それは旧秩序が崩壊した時代でもある。何を信じたらよいのか、何が確かか、それが分からなくなった。だいたい神の存在証明がこれだけ盛んに論じられたというのは異常事態ですよね。神なんているのが当たり前だったんだから。

――最近、哲学がなんとなくブームといいますか、注目を集めている気がしているのですが……。

國分 そういう意見をたまにお伺いするんですが、確かに最近は僕も仕事が多いんですね(笑)。時代がおかしい、混乱しているのだろうという気はします。ブレヒトの『ガリレイの生涯』に「英雄がいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」という言葉がありますけど、「哲学のない時代は不幸だが、哲学を必要とする時代はもっと不幸だ」という気はしますね。

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