『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の発売から3か月あまり。現在5刷4万5000部と版を重ね、「東大・京大で一番読まれている本」にもなった。5月25日には、東大の駒場キャンパスにて、著者の千葉雅也さんによる「勉強の哲学」講演会が開催。かつての学びの地である駒場にて、『勉強の哲学』のポイントを紹介しつつ、教養教育の意義が語られた。その一部を掲載する。
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なぜ勉強を語るのか
『勉強の哲学』では、勉強に対する心構えや僕なりの勉強の原理論、読書によって考えを広げるための実践的な方法まで、大学に入ってからの勉強、そして研究につながる話を展開しました。駒場生の皆さんや、大学1、2年生の皆さんにぜひ読んでほしい本です。この本が生まれる背景には、僕自身の駒場での学びの体験があります。そこには、自己変革をともなう、深くてヤバい学びがあった。今日は、大学生活を振り返りながら、今の時代に勉強することの意義について考えていきたいと思います。
なぜ、勉強を語るのか。背景には今の時代状況があります。大学にしても政治にしても、世の中の雲行きが怪しくなっている。実学志向で教養軽視の風潮が強まっていますが、それは、より従順な主体を作ろうという動きの一環に他なりません。
僕のツイッターでのいささか大学教員らしからぬ振る舞いなどは、従順化を強いる世の中への抵抗でもあるのですが、こんな中で重要なのは、いかに自分自身で情報力や思考力を養い、身を守っていくかなのです。現状の社会システム評価軸の中で成功したいという短絡的な姿勢ではなく、システムを深いレベルで変えようとするような生き方が必要です。そのためには、何よりも勉強することなのです。
東大入学からデビューまで
本論に入る前に、経歴を少しお話しさせてください。
僕は、今から20年前の1997年、東京大学の文科三類(以下、文3)に入学しました。最近、90年代のサブカルチャーがリバイバルしているそうですが、それを知るにつけ、時の流れの速さに驚かざるをえません。卒業したのは2000年で、指導教員は、中国哲学が専門の中島隆博先生でした。中島先生には、続けて修士課程までお世話になりました。僕は、中島先生が駒場に着任されて最初の卒論指導の学生です。
修士論文は、ドゥルーズの哲学における「動物になること」というテーマに関するものだったのですが、当時、中島先生は『荘子』の「胡蝶の夢」を研究されていて、荘子とドゥルーズを比べながら「変身」を論じるという横断的な指導を受けました。論文で行き詰まって研究室を訪ねると、先生は、古代中国の賢者のように、あるいは巫女の口寄せのように、ほとんど暗号のような、独特の語り口で圧縮されたアドバイスを発してくれたものです。それは、当時の僕一人ではとても考えが及ばないような、“遥かに先のところ”から飛んでくる言葉でした。
最初の書籍は、『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社)ですが、これはドゥルーズ&ガタリの哲学を「接続と切断」という観点から研究した博士論文を改稿したものです。研究者を目指す方の多くは博論の書籍化を目指すと思いますが、博論が学術書としてだけでなく一般書的にも読まれるという出版状況は、少し上の世代から始まりました。その代表は、1998年に刊行された東浩紀さんの『存在論的、郵便的』(新潮社)でしょう。あの本は僕がこの道を志した重要なきっかけです。僕の世代の大学院生にとって、東さんは憧れのモデルだったと思います。
2冊目は、『別のしかたで――ツイッター哲学』(河出書房新社)という、過去のツイートを選んで配列した本です。奇妙な本なのですが、僕の実存的な背景がわかるものだと思います。僕はそもそも、書き方を実験することに興味があります。専門書としての哲学書を書くことも大事な仕事ですが、書き方自体で新しいことをしたいとつねに考えている。フランスの哲学者は妙な本を書くことがしばしばありました。デリダは架空の書簡を書いていたり、バルトは『明るい部屋』という、写真論であり哲学書でありエッセイでもある本を書いています。僕もそういったいかがわしい本を書きたいのです。
今回の『勉強の哲学』も、そんな僕の欲望が形になったものです。この本は一見、自己啓発本めいた体裁をしていますが、これは “擬態”です。自己啓発本をハッキングするようなパロディを試している。ところで、インテリはたいてい自己啓発本をバカにするものです。多くの自己啓発本では、生産性を高めて自己責任の世の中を生き残っていけ、と煽るわけですが、どれを読んでも同じようなライフハックが書かれている。だからそれは、本当に知的なものだとは見なされません。でも、なぜそういうものが人を惹きつけるのかは、精神分析的に考えても、深い問題です。今回僕は、自己啓発的なものの魅力にわざと感染してみて、僕なりに“メタ自己啓発的”な書き方を実験しています。というのは、自己啓発的なメッセージを発しているようでありながら、同時に「自己啓発とは何なのか」という距離を取った問題意識をもっているということです。実際に使える実用書でもありながら、自己啓発という言説形態、書き方についての研究書でもある。