『勉強の哲学 来たるべきバカのために』の発売から3か月あまり。現在5刷4万5000部と版を重ね、「東大・京大で一番読まれている本」にもなった。5月25日には、東大の駒場キャンパスにて、著者の千葉雅也さんによる「勉強の哲学」講演会が開催。かつての学びの地である駒場にて、『勉強の哲学』のポイントを紹介しつつ、教養教育の意義が語られた。その一部を掲載する。
※気鋭の哲学者・千葉雅也の東大講義録 #2「勉強は変身である」より続く
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勉強のテクニック(1) 自分なりのメタゲームをつくる
勉強にあたって二つほど、ぜひ押さえてほしいテクニック的な話をしましょう。まずは、「自分なりのメタゲームをつくる」ということについて。
教養的に物事に関わるとは、社会学も勉強する、物理学も哲学も勉強する、とジャンル横断的につまみ食いをすること、いわば複数のゲームを同時にプレーすることです。皆さんにはぜひ、こういった教養的な複数性の意識を持ち続けて欲しいと思います。その際、複数性を貫く総合的な視点を持つことが必要でしょう。僕はそれを“メタゲーム”と名づけたいと思います。つまり、数学にも社会学にも哲学にも共通するような、「自分なりのメタゲーム」を想定してもらいたいのです。平たく言えば、それは共通の取り組み方を見出す、ということです。
たとえば哲学と数学を勉強するときに、どういう共通の取り組み方ができるかを考えてみます。数学では、一定の公理から出発して、その体系の中で定理の証明をします。公理とは、それ自体は疑いの対象にしない、推論の出発点となるものです。こうした論理里の捉え方をベースに、たとえばカントの『純粋理性批判』を読んでみるならば、カントの哲学に公理と呼べるような命題はどんなものがあるか、と考える視点が生まれるでしょう。公理系を見つけるというメタゲームによって数学と哲学を横断するわけです。
自分に独自のメタゲームは、自分の享楽的こだわりによって形成できるでしょう。たとえば僕の勉強の根本には、コレクションしたいという欲望があります。僕は幼少期から、36色のサインペンが並んだセットや、水槽の中の熱帯魚のように、多種類のものが存在するということが好きでした。とくにマイナーなものに興味がありました。奇妙な深海の生物とか、熱帯の植物とか。どうしてそうなったのかわからない、合理的に見えないような形の固有性、「無意味」に思える形態のおもしろさに惹かれていた。それがおそらく、ある合理的な体系の中で、一見無意味なものを重視するという僕の今の仕事のやり方につながっているのだと思います。僕は、ある分野において“無意味”がどのように扱われているか、というメタゲームをやっている。皆さんもぜひ、享楽的こだわりをもとに、そうした複数の分野を貫く「自分なりのメタゲーム」を見つけて欲しいですね。
というのも、誰かが作ったゲームの上で競争するのは疲れる人生だからです。それは常に誰かと勝負をすることになる。しかし、「自分なりのメタゲーム」を作ることができれば、あなたに勝てる者はいなくなります(笑)。そこで構築された言説は、誰にも負けないものになる……。そのひとつの例が、蓮實重彦のケースだと思います。彼は、まさに自分の語りの土俵を作ってしまった。その土俵上では誰も彼に勝つことができない。彼の有名な言葉に、「私はよく偉そうだといわれるが、偉そうなのではなく偉いんです」というものがありますが、「偉い」とはつまり、彼独自のメタゲームをしている、ということでしょう。あらゆるものを自分独自の見方で見る、そうすれば、あなたは常に勝っている状況になる。ぜひこの視点を、皆さんの研究設計の参考にしてみてください。