(前編から続く)
ドキュメンタリーとは違ったことをやったほうがいいんじゃないか
沼田さんが小説を書き始めたのは、20代前半のこと。38歳でこうして受賞するまで、何度か新人賞へ応募してきた。文章や言葉の表現に目を向けたのはいつかと辿れば、小学生時代の思い出へと行き当たる。
「4年生のとき、父の部屋にあったビートルズを隠れて聴いたら、音楽と相まって歌詞が鮮明に心に残った。英語はわからないので対訳を見ていたんですけどね。初めて聴いてみたのがアルバム『Let It Be』で、1曲目の『Two of Us』がいちばん印象に残っています」
以来、さまざまな文章表現に親しみ、いつしか自然に、みずから書くことも始めた。
「詩も好きになって、よく読んだり、遊び程度ですが書いたりしました。最初は口語自由詩みたいなものを書いていたけれど、もうすこし自由が欲しくなって散文詩になり、もっとエンターテインメント性があってもいいと思い小説へと移っていきました。小説は時の流れを作品の中に取り込むことができて、そこにドラマが展開されていくのがおもしろかった」
歌詞や詩が出発点にあったというのは、ひじょうに納得のいくところだ。というのも沼田さんの小説は、文章自体を読み味わう愉しみにあふれているから。ごてごてと飾ったところのない、真水のようにクリアな文体。シンプルで何気ない文章に見えるが、きっと多大な時間や労力がかけられている。
「気を配っているのはたしかです。ただ、『影裏』を自分で読むと、なんだか取り澄ましていてカッコつけすぎじゃないかという気もしてしまう。回りくどくて、何かぼかしているような書き方で、こういうのが鼻につくという人はいるかもしれないと自覚しています。まあ、意図的にそうした部分はあるのですが」
意図的にはっきりしない文章を紡いだのは、なぜ?
「今はSNSなんかで、誰もが自分や身近な人、食べたものや行ったところの写真をアップしたりしますよね。そういうのはみんなやっているので、僕が文学で同じことをやらなくてもいいと思った。ドキュメンタリーというか、事実を扱うことばかりがもてはやされるなら、文学では違うことをやったほうがいいんじゃないか。実録ものだったら、新聞や週刊誌でじゅうぶんということになります。実際、僕もそういうのはよく読みますし。最近だったら松居一代さんの記事とか」
ひとつ現実的なことを言ってしまえば、新人賞なり芥川賞なりを狙うなら、ものをぼかした書き方よりも、派手な事件をはっきりわかりやすく書いたほうが、人の目につきやすく、有利だったりするのではなかろうか。
「どうでしょうね。その人の資質も関係してきますから。そうした派手な小説を僕が書くと、まるでガリ勉がヤンキーの真似をしているようなことになってしまうんじゃないかと。本当に誠実な作品を書くなら、フランス文学のセリーヌやジュネがやったくらいに根性を据えないと、ものにならない気がします。もともと自分をさらけ出すようなタイプではないので、僕がやると、きっと中途半端なことになってしまいますよ」
『影裏』では、主人公・今野としばしば釣りへ出かける日浅にまつわる「嘘」によって、いっそう不透明な雰囲気が強まる。何が本当で何がそうでないのかわからず、読む側の心をかき乱す。
「嘘というか虚構にはずっと関心があって、考えてみると政治も宗教も恋愛だって、すべては虚構であり束の間のものなんじゃないかという思いが根底にあります。小説はそもそも虚構で、といいますか書かれたものはたとえ実話をもとにしていてもやはりフィクションですから、そのあたりに惹かれて文章を書いたり読んだりしている面はありますね」