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「夕方には女とポン引きだらけでまっすぐ歩けなかった」なぜ寂れた離島が“ヤバい島”になったのか?

『売春島 「最後の桃源郷」渡鹿野島ルポ』#3

2020/09/20
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古い住宅地図をめくってみると…

 佐津間さんと別れた僕は、急いで島を離れ東京に戻った。知り得た情報を精査するためである。

 その足で、僕は法務局(登記所)に向かった。島に現存する土地と建物の不動産登記簿謄本をしらみつぶしに調べることにしたのである。

 そこで得た『つたや』の謄本には、芥川さんの名前はなかった。所有者の欄には『岡田雅子』の名前が。これが、佐津間さんから聞いた“置屋経営者のママ”で間違いないだろう。

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 その『つたや』は、2016年10月に競売にかけられ、所有権は神奈川県横浜市のKという人物に移転していた。既に廃業していることは知っていたが、何があったのだろうか。

“売春島”中心部の夜の様子(著者提供)

『恋の坂』の謄本では、金貸しをしていたというKさんと、その内縁らしき女性、Kという名字の女性の名前もあった。佐津間さんに電話で確認すると、芥川さんと岡田雅子、それにKさんは既に亡くなっているという。が、Kさんの内縁者は今でも島で置屋を経営し、“Kさんの嫁”であることが分かった。

 一歩前進したが、既に重要な取材対象者が亡くなっていることに愕然とした。残るはKさんの嫁、A組の姐さん、そして元A組の置屋経営者、寒川さんだ。

 翌日、“売春島”の遍歴を調べるため、国会図書館で渡鹿野島の住宅地図を閲覧した。現存していた最も古いものは、1968年。以降、古いものは飛び石だが、1990年代からは連続して残っていた。

 住宅地図を広げ、居住者の名前や店舗の屋号をつぶさに調べた。1968年にはホテル、旅館、飲食店が1軒ずつ。あとは民家だけのようだった。

 しかし1977年になると、宿泊施設は6軒ほどに増え、複数のスナックやアパートもあった。