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日本のメディアが作った「ムラ社会」 朝日新聞記者が憂う“ジャーナリズムの後進性”

『さよなら朝日』より#3

2021/04/12
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「表現行為」は誰かしらを傷つける可能性を持つ

 公共施設での展示と公的補助の是非が絡んだ不自由展の問題と、日赤ポスターの騒動は同列には扱えない部分もあるし、これを持ち出すことで、ポスターを擁護したいわけでもない。ただ、一般論として、表現行為はすべからく誰かを傷つける可能性を持つ。不自由展の慰安婦像などの作品を名古屋市長は「日本人の心を踏みにじる」と批判したが、誰の気にも障らない表現の自由なら中国にも北朝鮮にもある。また、特定の宗教や文化や国への誹謗、憎悪の表現は、褒められたものではないかもしれないが、ヘイトスピーチ(☆2)や差別とは言えない(本人が主体的に選べない特定の属性に基づいて個人や集団を攻撃、中傷し差別を煽るのがヘイトである)。パリのシャルリ・エブド事件(☆3)の直後には「あの風刺は行き過ぎ」「表現の自由は大事だが節度が必要」といった言説が広がったが、これは、この国の表現の自由の現在地を示すものだったかもしれない。

©️iStock.com

表現行為そのものの否定や抹殺について

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 日赤ポスター問題について言えば、特定の身体パーツの強調が女性を性的なものに還元しており無意識な女性蔑視を投影している、という批判は確かに成り立ち得るだろう。「胸の強調は女性蔑視だ」と批判したり「私はこのポスターを支持しない」と表明したりする表現の自由は、もちろん保証されている。しかし、表現内容への評価と、これが本当に「環境型セクハラ」(☆4)の定義を満たすものなのかという疑問、そして不特定多数の目に触れる場所に置くことの是非論は、せめていったん切り分けて論じたい。そのうえで、安易に作品の撤去・回収を求めたり先回りの自粛をしたりして表現の機会を奪うことには、禁欲的でありたい。表現への批判は旺盛に行うべきだが、表現行為そのものの否定や抹殺はすべきではない。さらに控えめに付け加えれば、「○○の尊厳を傷つけている」が、その実「私の感情を害している」に過ぎないのではないか、という可能性に自らの心を開いておく程度には、謙虚でありたいものだ。「表現の自由」の価値を高く掲げる「リベラル」であるのなら。