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『おかえりモネ』の百音も…今期のドラマで「社交的な陰キャ」が描かれる“2つの理由”

2021/06/15
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互いに踏み込まず、察し合う仲間たち

『コント』も『モネ』も『とわ子』も直接的なしんどい描写は少ない。主人公たちがふわっと詩のように虚ろな瞳をして、その瞳の奥や、表情から、視聴者が読み取りたい感情を勝手に読み取るような余白になっている。さらに、しんどい経験を癒やしてくれるような、仲間や知人や家族の空気を含んで柔らかいタオルのように肌にやさしい関係性が描かれる。

『モネ』や『コント』や『とわ子』では登場人物たちが終始一貫して塞いでいるわけではないし、他者との関わりを閉ざしているわけでもなく、感じよく振る舞い、時には笑顔になるが、ふとした時、瞳が虚ろになる。「社交的な陰キャ」という感じである。

 皆、互いに踏み込まないように気遣い、相手が何を求めているのか察しようとアンテナを張る。そんなふうに懸命に気遣っている空気を読まず、自分本位の意見を乱暴に押し付けてくる者はあっという間にいなくなる。もしくは味方になってしまう。みんなやさしいけれど、主人公たちはかなしい瞳をしている。

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かなしさのやり過ごし方を描くドラマ

 他者を傷つけない人たちだけの繭のような共同体で生きている人たち。これは前クールの『にじいろカルテ』(テレビ朝日系 木曜よる9時~)もそうであった。岡田惠和はこの手の作風の先駆者で、『姉ちゃんの恋人』(フジテレビ系)も朝ドラ『ひよっこ』(2017年度前期)もみんなが厳しく怖い世間の荒波から隠れるように肩寄せ合って生きていた。「生きるかなしさ」を見つめた末に発見した、かなしさのやり過ごし方を描く。それが、今の陰キャのドラマである。

『にじいろカルテ』の主演を務めた高畑充希 ©AFLO

 春斗や中浜や百音のどこまでも透明過ぎる瞳。とわ子の黒々とした光を吸収するような瞳……。スター的な人物にあえて虚無的な瞳をさせることで、奥に潜む何かを湖を覗き込むように見つめているような神秘性がエンタメになる。時には、彼らの目に中浜のように光が当たる瞬間が喜びになる。

 社会派とはちょっと違う角度のリアリティーとミステリー、それが今のドラマの主人公の瞳に現れている。いずれにしても、瞳のニュアンスで演じることのできる名優たちの演技力があるからこそできるトライである。松のようなベテランのみならず、若手俳優のスキルも上がっているからこそ、人間の深い陰影を表現できる陰キャドラマも作ることができるのである。

『おかえりモネ』の百音も…今期のドラマで「社交的な陰キャ」が描かれる“2つの理由”

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