氷点下13度でも汗だくになる荷揚げ作業

 村を出発してしばらくは真っ平らでカリカリの氷だったが、すぐに定着氷の状態は最悪になった。定着氷は満潮時に沿岸の岩場やよせあつまった氷の塊のうえに潮がかぶって、それが何度もくりかえされることでできあがる氷なので、発達すれば舗装道路のように真っ平らになるが、このときはまだできはじめの状態で岩や海氷がボコボコと突きだして予想以上にひどい状況だった。おまけに橇は気が狂いそうなほど重たく、とてもではないが2台連結して引くことはできない。氷もできあがったばかりのカリカリの裸氷で、犬も爪がかからず力が入らなかった。1台ずつ橇を分割して引いたが、それでもその重たい橇がいちいち岩や氷の隙間にはさまったり落ちこんだりして、私はそのたびごとに犬を叱咤し、ウグワァアアア! と絶叫をあげて引き揚げた。

©折笠貴

 氷点下13度、気温もまたこの重労働をこなすには暑すぎた。すぐに汗みどろになり、私は海豹の皮ズボンを脱いだ。こんなときこそ筋トレマニアのアメフト男、かつ引っ越し屋の仕事の経験も長いフリー映像作家亀川芳樹氏のふくらんだ二の腕の筋肉が役に立ちそうなものだが、亀川さんは「ぼくらはあくまで取材者。角幡さんの単独行をけっして邪魔しませんから」とこの状況ではクソにもならない潔癖な取材倫理みたいなものを持ち出して傍観者を気取った。私は苛立ちをおぼえた。もちろん一人で旅をはじめたらすべて自分でこなすが、隣に人がいるのに手伝ってもらえないのは頭にくるだけである。というか、お前の1週間分の荷物もこの橇に積んでいるんだよと思い、ブチ切れた。

「くだらんこと言ってないで、後ろから押してくださいよ!」

3日目、定着氷の崩壊で進路を絶たれる

 夕方になると地平線の下にある太陽の影響力が失われ、あたりの空が本格的に黒ずんできた。それと入れかわるように東からあと数日で満月となる丸い月がまばゆい光をはなって昇った。定着氷の青氷が月光を照りかえし、海が、氷河が、すべての雪の斜面がうすい光をあびて明るくなった。

 だが、世界が美しく照り映えても、どんなに亀川さんがあつい胸筋をプルプル震わせても、われわれのペースはいっこうにあがらなかった。何度も海までせりだした岩場に遮られては橇の荷をほどき、両手で向こう側に持ちはこぶということをくりかえした。満月が近づき潮位もあがっていたせいで、満潮時になると定着氷のうえに潮がかぶり、至るところに落とし穴さながらのシャーベット状の水溜まりができて、それがわれわれをさらに苛立たせた。

 遅くても2日目には氷河に到着したかったのに、その日にキャンプをした場所はちょうど中間地点にある別の氷河の河口だった。そして3日目、ついに行き詰った。氷河の手前のイキナと呼ばれる岩壁帯の途中で定着氷が完全に崩壊しており、橇を引くためのルートが途絶えてしまったのだ。前進が無理となった以上、氷河の荷揚げは断念せざるを得ない。仕方なく岩壁帯の途中の少し広くなった場所に運んだ物資を置き、狐に荒らされないように周囲を岩石で固めて村に戻ることにした。

 海は黒々としており吸いこまれそうな闇に溶けこんでいた。まったく凍りそうな気配は見られず、いつ出発できるのか想像もつかなかった。

このそばに食糧をデポし、村へと帰った ©折笠貴

『極夜行』
角幡唯介

定価:  本体1750円+税
発売日: 2018年02月09日