文春オンライン

ただの露悪的な「セックス語り」ではない…がん宣告された男性障害者の“風俗通い”から見えた「真実」

2021/08/01
note

*以下の記事では、現在劇場公開中の映画『愛について語るときにイケダの語ること』の内容と結末に触れていますのでご注意ください。

 YouTubeからEテレに至るまで「パラ猥談」とでもいうべき障害者のあけすけなセックス語りは巷に溢れている。それらは斬新な動きとして新聞でも度々好意的に取り上げられる。

愛について語るときにイケダの語ること』は四肢軟骨無形成症(同作パンフレットによれば、通称コビト症)の青年・池田英彦氏が風俗に行きハメ撮りしまくった映像を元にしたセルフドキュメンタリー映画だ。

 それだけなら新鮮味は乏しい。

ADVERTISEMENT

「障害者だけど風俗行っちゃう悪い俺」的な話はパラ猥談の中でも特にホモソーシャルかつ陳腐なN番煎じであり「あーその手の語りですね」と片付けられる程度のものだ。 

 しかし池田氏はがんを宣告され死期を悟っている。この要素が一つ加わることで奇跡的な化学反応が起こり、氾濫する凡百のパラ猥談を超えた真の障害者アートに昇華されている。本作は短い余命を愛の探求に捧げた男による一回性の「生の芸術」だ。

© 2021 愛について語るときにイケダの語ること

余命を宣告され、風俗に行きハメ撮りしまくる主人公

 彼は序盤ではひたすら風俗に行きハメ撮りしまくる。死を目前に、生きた証を残したい気持ちと、本当に好きなことをしたいという欲望が合わさった結果だろう。

 その行動は一見突飛だが、彼と同じく男性の身体障害者である筆者には腑に落ちる部分もある。セックスしたいと思った時に、恋人を作って性交するという正攻法に現実味を感じられる障害者がどれ程いるだろうか。よほど自信家でもない限り検討すらしない方策だと思う。だから必然的に風俗一択になりがちなのも感覚としては分かる。

 一方、彼と重度脳性麻痺の筆者とでは全く違う点もある。

 彼は腰を振ることができるし、障害が性行為の物理的障壁にはほぼなっていない。これはセックスを楽しめるか否かを大きく左右する極めて重要な資質である。

 筆者は腰を振れないため完全に相手に依存せざるを得ず、主体的になれないから何も楽しくない。普段介護されている時と同じ受動的な感覚。俎板の鯉のように横たわる無力さ。

 池田氏でさえ、病状が進み、おむつを穿いてデリヘルを呼ぶのは「介護老人かって言われそう」と二の足を踏む。事務的なプロセスの中に自分がかき消えていくような虚無感と相手への申し訳無さが行為への没入を阻む。実感を得ようともがくほど、他人の茶番を外から眺めているような白々しさが募るだけだ。