はっぴぃえんどでの活動を終え、1973年に職業作詞家としての活動を始めて以来、数々の名曲を世に送り込んできた松本隆氏。作詞家として、常に時代の最先端を走り続けてきた同氏だが、「89年のWinkから94年の明菜までが僕の休憩期間だった」と語るように、意外にも作詞から離れていた時期がある。そんな松本氏が、実質的な活動休止状態から再びシーンの中心に舞い戻るきっかけとなった一作が、KinKi Kidsのデビューシングル『硝子の少年』だった。

 松本氏が作詞活動を再開した経緯、そして、久々の作詞に込めた思いとは。音楽評論家の田家秀樹氏が、日本を代表する作詞家の軌跡を追った評伝『風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年』(KADOKAWA)の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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KinKi Kidsのデビュー曲「硝子の少年」で復活!

 97年、シーンに復帰した松本隆が再びヒットチャートを席捲したのは、80年に筒美京平とのコンビで近藤真彦をデビューさせたジャニーズ事務所の新人、KinKi Kidsだった。

「麻布十番に“平田”っていう常連になっていたイタ飯屋があって、ジャニーズ事務所のメリー喜多川さんもよく来てたの。そこで会った時に、松本君、今度新人やるからお願いねって言われて始まった」

松本隆氏 ©文藝春秋

 作曲家として起用されたのが山下達郎である。1953年生まれ。いうまでもなく元シュガー・ベイブのリーダーという“バンド出身者”。筒美京平で始まった近藤真彦の82年発売の7枚目のシングル「ハイティーン☆ブギ」は山下達郎が手掛けていた。

 近藤真彦のディレクターは山下達郎がソロになってからの制作面でのパートナーだった小杉理宇造だった。79年に松本隆が初めてシングルチャート1位を手にした、筒美京平作曲の桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」も彼だ。

 山下達郎がシュガー・ベイブを結成したのは72年。ステージでのお披露目となったのが73年9月21日の文京公会堂、はっぴいえんどの解散コンサートである。

 バンド解散後にメンバーそれぞれがプロデュースする新しいバンドやアーティストのお披露目の中で大瀧詠一が次に手掛けるバンドとして紹介された。75年4月に出たシュガー・ベイブのデビューアルバム「SONGS」は大瀧詠一が発足させたナイアガラ・レーベルの第1号だ。つまり、大瀧詠一直系ともいうべきバンドだった。