「風をあつめて」「木綿のハンカチーフ」「君は天然色」「赤いスイートピー」「ルビーの指環」「硝子の少年」などポップス史に残る名曲を生んだ松本隆氏。時代を代表するアーティストたちと仕事を共にするうえで、彼はどのような考えを持って作詞に臨んでいたのだろうか。
ここでは、音楽評論家の田家秀樹氏の著書『風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年』(KADOKAWA)の一部を抜粋。松田聖子との知られざるエピソードを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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松田聖子オリジナルアルバム12枚中、全作詞松本隆が8枚。全作チャート1位
ようやく、と思われた方も多いのではないだろうか。
松田聖子である。
歌謡曲にせよポップスにせよ“歌モノ”と呼ばれる音楽には、名コンビとして知られている作詞家と歌い手の関係がある。
たとえば60年代の永六輔と坂本九、岩谷時子と加山雄三、70年代の阿木燿子と山口百恵、阿久悠とピンク・レディー。歌い手の異質さに目をつぶれば、21世紀に入ってからの秋元康とAKB48もそうした流れに入るのかもしれない。
でも、作られた曲数の多さや実績、そしてその歌い手のキャリアの中での印象の強さ、何よりもアルバムという分野では、松本隆と松田聖子を凌ぐ関係は存在しない。
シングルヒットが全てだった60年代や70年代には“アルバム”という概念自体が一般的ではなかった。阿木燿子が全曲を書いた山口百恵のアルバムは2枚しかない。
松本隆と松田聖子はどうか。81年「風立ちぬ」から88年までに発売されたオリジナルアルバム12枚のうち、松本隆が全曲の詞を書いたのは8枚。1曲だけ聖子自身が書いている83年の「ユートピア」を加えれば9枚。全作がチャートの1位を記録している。
さらにシングルにしても、最初に書いた81年7月発売の6枚目「白いパラソル」以降、88年の25枚目「Marrakech~マラケッシュ~」まで20枚のシングルのうち17枚を担当、やはり全てが1位を記録している。
80年代の松田聖子のほぼ全てを作り上げたと言っても過言ではない。