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「僕の詞じゃないと生かせない」“声と勘が良くて気が強いだけ”だった松田聖子が80年代を代表するアイドルになれたワケ

「僕の詞じゃないと生かせない」“声と勘が良くて気が強いだけ”だった松田聖子が80年代を代表するアイドルになれたワケ

『風街とデラシネ 作詞家・松本隆の50年』より #1

2021/11/28
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 加えて、松本隆が松田聖子との関係の中で語られなければいけないのは、彼が作曲家の人選も含めた影響力を持っていたことがある。職業作家と歌い手という一般的な次元に留まっていない。

 松田聖子と松本隆のかかわり方はどういうものだったのか。彼女を発掘したCBS・ソニーのディレクター、若松宗雄はこう言った。

「シングルには私のイメージがあったりしましたけど、後はほとんど松本さんに勝手に書いていただいたと言っていいでしょうね。私からこういう内容でとか詞のストーリーをこうしてくださいとかは一言も言ったことがないです。彼が素晴らしい詞を書いてきて、彼女が歌うとこうなるんだと毎回思ってました」

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ディレクターのねらいは、「アイドルだけど音楽性も文学性も」

 松田聖子がデビューするきっかけになったのは78年、CBS・ソニーと集英社の雑誌『セブンティーン』が主催した「ミスセブンティーン」のオーディションだった。

 ただ、彼女は九州地区大会で優勝したものの、親の承諾を得ることができずに全国大会への出場を辞退している。その応募テープを聴いた若松宗雄の強い勧めと親への説得によって79年に上京、歌手への道を歩き始めた。

「決戦大会の前に全部のテープを聴いてみたんです。写真も履歴書もないままにずっと聴いていった中ですごいなと思ったのが彼女だった。声の強さとテイスト。抜けの良さですね。でも、 会社の人にも聴いてもらったけど、誰もいいとは言わなかった。だから好きなようにできたと言っていいかもしれません」

写真はイメージです ©iStock.com

 彼女のデビュー曲は80年4月発売のシングル「裸足の季節」。アルバムは8月に出た「SQUALL」。作詞はともに三浦徳子。松本隆が書くようになるのは81年5月発売の3枚目のアルバム「Silhouette~シルエット~」収録の「白い貝のブローチ」からだ。作曲は財津和夫。彼は81年1月発売の4枚目のシングル「チェリーブラッサム」から起用されていた。

「聖子自身は、音楽的に突出していたわけでも文学的な何かがあったわけでも、本をたくさん読んでいたとか、文章を書くというタイプでもなかったですからね。ただ歌が好きで声と勘がよくて、気が強かっただけなんです。だから、音楽的な曲とか文学的な詞がないともたないな、というのが入り口。財津さんは私が好きだった人で、品があるし娯楽性もある。松本さんがすごい作詞家というのは太田裕美で分かってましたからね。そういう人に書いてもらえば歌の価値があがる。彼女の表現力は優れてるから土台がしっかりしたものさえあればと。アイドルだけど音楽性もあるし文学性も出したい、これだけですよ」