生前のインタビューでは、「気分転換、ストレス発散がすごく下手なタイプ」と自嘲気味に語っていたことも…。天才芸人・志村けんの“笑い”にかけた人生とは? 朝日新聞編集委員で、昨年10月に亡くなった小泉信一氏の新刊『スターの臨終』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)

孤独でストイック――天才芸人・志村けんの人生とは ©時事通信社

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 志村と1988年から1年間、「加とちゃんケンちゃんごきげんテレビ」(TBS)の構成作家として仕事を一緒にした江戸川大教授でお笑い評論家の西条昇は話す。

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「志村さんは、コントで見せるバカバカしさとは打って変わって、真剣な表情で一点を見つめ、静かにギャグを考えていらした。何より驚いたのは、その勉強熱心な姿勢と、それに裏打ちされたギャグの貯蔵量の多さだった」

笑いにはマンネリは絶対に必要

 志村は、1950年2月20日、東京都東村山市生まれ。故郷は一面の桑畑と雑木林だった。お笑いの道を子どもの頃から志した志村にとっての楽しみは、自宅のテレビから流れる漫才や落語。小学校の教頭で厳格だった父が一緒に笑い声を上げて見ていたこともあり、それには驚いたという。

 志村は高校卒業直前、ドリフのリーダー・いかりや長介を訪ねた。2月の雪の降る日だった。いかりやの自宅マンション前で、何と12時間も帰りを待ち続けたという。

 そして志村は1974年、荒井注に代わってドリフに正式加入した。私は当時のことをよく覚えているが、懸命に動き回る熱演を見せるも、志村のキャラクターは世間一般にはなかなか浸透しなかった。先輩方に遠慮していたのだろうか。ブレイクするきっかけは先述したように、2年後の1976年、「東村山音頭」である。

 さて、志村のギャグを「マンネリ」と批判する人がいたが、これに対して志村はこう反論している。