「歌を歌う人って、すごく紙一重なところがあるんです。そのぎりぎりの紙一重のところを超えてあちら側にいっちゃったんだな」
2013年に訪れた、歌手の藤圭子さんの突然の死。いったい彼女に何があったのか? 朝日新聞編集委員で、昨年10月に亡くなった小泉信一氏の新刊『スターの臨終』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全3回の2回目/最初から読む)
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「暗い淋しい歌が好きです」
藤が北海道から上京し、「新宿の女」でデビューしたのは1969(昭和44)年9月、18歳のときだった。学生運動の象徴だった東大安田講堂が陥落してから8カ月。時間の流れとともに騒乱の熱狂は冷めつつあり、学生たちには挫折感が広がっていた。藤のドスのきいた歌声は迫ってくるような凄みがあり、そんな彼らから圧倒的な支持を得た。
大きな黒い瞳に、長い黒髪。京人形のような愛くるしい面立ち。紺のパンタロンに白いギターを抱え、夜のネオン街などを回りキャンペーンをした。キャッチフレーズは「演歌の星を背負った宿命の少女」。降り注ぐスポットライトの中で直立していた藤本人は、どう思っていたのだろう。
「暗い淋しい歌が好きです。映画、悲しい物語。漫画もコミカルなのはだめです」
デビュー翌年の70年、朝日新聞の記者にこう答えている。
こんな風に語るのは、イメージ戦略というのはあったかもしれない。
「フッと笑う彼女の素顔は明るい。歌だけの彼女を思う人には意外にすら見える。うちとけるとよく話し彼女の明るさがわかると友だちは言う」
この記事も同じころ書かれた。その一方で、藤は「あまりたくさんのヒトとつきあたいと思わないです。(中略)気に入らないヒトでもニコニコあいさつしなきゃいけないでしょう。やっぱ相手にカンジよくしなきゃいけないし……」と、こんなことも記者の取材に答えている。
子どものように明るく無邪気な藤圭子と、ドロドロとしたどす黒いものを秘めた藤圭子。どこまでが虚像でどこからが実像なのか、分からなくなってくる。だが、虚像も実像もいつしか一体化してひとり歩きしていくのがスターの宿命である。
そういえば、藤をデビュー前から知っていた音楽プロデューサーの小西良太郎(1936-2023)は私の取材にこう言っていた。
「時代の風に巻き込まれ、どうすることもできなくなってしまった。生身の阿部純子(藤の本名・旧姓)とのギャップも大きくなりすぎた。自分が夢にまで見た家庭の幸せも、離婚などがあり崩壊。長い孤独の果てに、死を選んだのではないか」
こんな声もあった。新宿ゴールデン街で小さなスナックを経営していた渚ようこ(非公開-2018)は、藤の死を聞いてこう思った。
「歌を歌う人って、すごく紙一重なところがあるんです。そのぎりぎりの紙一重のところを超えてあちら側にいっちゃったんだな」
渚も、グサリと突き刺すような歌声だった。行間からあふれる負の叫び。クールに構えながらも情熱にあふれていた。聴く人の心の痛みと孤独と不幸に精いっぱい寄り添ったが、「山形から上京した」と言うだけで自らの過去はほとんど語らなかった。
いずれにしても、藤がなぜ自死を選んだのか、その理由は本人にしか分からないが、彼女の生い立ちを探っていくと深い「心の闇」の一端が見えてくるようである。
少女時代を過ごした北海道に、私は向かった。