「人生の深い淵を覗いてしまったようなしわがれ声と本音がにじむなげやりな歌唱法は、ただ者でなかった」
昭和の時代、個性的な声と歌で聴く人をトリコにした歌手の藤圭子さん。2013年に突然の形で亡くなるものの、今もその存在感が色褪せない彼女の人生を、朝日新聞編集委員で、昨年10月に亡くなった小泉信一氏の新刊『スターの臨終』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全3回の3回目/最初から読む)
幸せな家庭生活も崩壊
やがて音楽プロデューサーの宇多田照實と結婚。2人の間に生まれたのが宇多田ヒカルだ。
だが、せっかく手に入れたと思った幸せな家庭生活も崩壊。離婚した。長く孤独な生活で、藤は次第に精神的に追い詰められていったのではないか。
「自分を『暗い』と思ったことはなかった。怨念といっても、ことさら身を切り、骨を切るといったつらさの実感もあまりなかった」
若いころの藤は、マスコミの取材にそう応じてはいるが、虚像を演じていただけかもしれない。
藤の生い立ちに戻ろう。
中学卒業を1カ月後に控えていたとき、地元の雪まつりショーに出演し、歌を披露した。それを偶然聴いた東京の作曲家が「娘さんを東京に出して、歌の勉強をし直しませんか。きっと売れます。スターになれます」と熱心に両親を説得した。藤は両親と一緒に上京し、目の不自由な母の手を引き、浅草など東京の下町を流した。
1969年、18歳のとき、「17歳」と年齢を偽って「新宿の女」でデビュー。
70年、「〽︎十五、十六、十七と私の人生暗かった」とうめくように歌った「圭子の夢は夜ひらく」は、安保闘争に敗れた若者らの共感を呼び、「怨歌」と呼ばれた。
「人生の深い淵を覗いてしまったようなしわがれ声と本音がにじむなげやりな歌唱法は、ただ者でなかった」