ちらつく不幸の影

 藤の突然の死から2カ月後の2013年10月下旬、私は北海道北部の名寄市にいた。

 JR札幌駅から特急とローカル線を乗り継ぎ約3時間。かつては宗谷本線の中心地として林業で栄えた街も時代とともにすっかり冷え込み、商店街を歩いてもシャッターを閉め切ったままの店が多かった。

 本州ではまだ秋。これから紅葉の季節を迎えるというのに、この北の小さな街には灰色の雲が垂れ込め、ちらちらと粉雪が舞っていた。

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「これから長い長い冬だべ」

 滞在していた名寄駅近くの安宿のご主人が、ぼそりとつぶやいた。ストーブの上に置かれたやかんからシューッと白い水蒸気が舞い上がる。

 なんだか、自分が遠い世界に迷い込んでしまったような気がした。8月22日の藤の悲報以降、さまざまな人に会い、証言をインタビューした。でも、なぜ彼女が人生の終幕を自らの死で終えたのか、その答えは分かるようで分からなかった。肌を突き刺すような寒さに、夜は何度も目を覚ました。

 名寄に来る前の日は旭川市に泊まった。小中学生時代、藤と同級生だった人に会うことができた。同級生は「阿部純子は、とても利発な子だった。貧乏だった家の仕事を手伝うため学校は休みがちだったけれど、勉強はクラスのトップだったのではないかなあ」と言う。地域の祭りや集会があると、藤はマイクなしで唄を歌い、お小遣いをもらっては喜んでいたそうだ。地元の神社で開かれた歌謡大会では美空ひばりの「リンゴ追分」を熱唱し、優勝した。歌うことが好きな普通の娘だったのだろうか。

 それにしても、岩手県の一関生まれの藤が、なぜ北海道なのか。名寄市在住の藤のいとこが取材に応じてくれた。

「私の父が東京の浅草で浪曲師をしていたのですが、終戦前に北海道に疎開してきたのです。その父を頼って岩手から来たのが、親戚の藤さん一家でした」